「1945年3月10日の東京大空襲について、米国を批判する」(Sputnik日本)

「1945年3月10日の東京大空襲について、米国を批判する」(Sputnik日本)









https://sputniknews.jp/20230310/15222087.html





広島、長崎の前に米軍が行った残酷極まりない未曽有の絨毯爆撃 1945年3月10日の東京大空襲





2023年3月10日, 07:05







© 写真 : Ishikawa Kōyō/Public domain / Tokyo kushu 1945-4



1945年3月9日から10日にかけての深夜、日本の首都東京は米空軍の絨毯爆撃を被り、都市の大部分が破壊された。東京大空襲を行った爆撃機B29 数は334機。その334機がそれぞれに数トンの焼夷弾とナパーム弾を積み、ぐっすりと眠っていた東京にばらまいた。最初の数時間で火に撒かれて8万6千人が死亡。4万1千人が負傷し、100万人を超す市民が家を失った。こんな恐ろしい目に遭った町は広島と長崎の悲劇が起きるまでは、世界に存在しなかった。





大空襲への準備



米国は、遠距離型爆撃機ボーイング B-29 スーパーフォートレスを開発製造するや、日本の軍事施設へに空襲を開始した。とはいってもB29の設計はその開発に注がれた力と資金にかなうものではなかった。比較のためにマンハッタン計画をひくと、原爆の製造には20億ドル(2721億8000万円)が費やされたが、遠距離爆撃機の製造は30億ドル(4082億6000万円)もの国費がかかった。しかも日本の戦闘機の反撃は実際的な成果をもたらすようになっており、1945年2月だけでも75機のB29がパイロットを載せたまま撃墜されていた。



このため莫大な経費を食ったB29の製造プロジェクトを何としても迅速に正当化する必要が生じた。そこで持ち上がったのが首都東京を絨毯爆撃するという構想だった。厳密な編隊を組まず、夜間、高度2000メートル以下で空襲を行う。こうした攻撃は前例がなかった。



東京の下町を爆撃する。搭載する爆弾は焼夷弾クラスター爆弾とナパーム弾が想定されていた。このような場合、爆撃の対象を絞ることはできない。だが、爆撃対象を絞ることは米軍の指揮官たちは想定していなかった。軍需産業を支える小さな町工場が住宅地に多く位置していることが、米国にとって住宅地を攻撃する正当な理由と根拠だった。







1945年3月10日の大空襲後の東京

© Sputnik






爆撃と火災



1945年3月の東京都の人口はおよそ500万人。総面積の40%を家屋が占めるほど密集していた。しかも95%以上が木造家屋でそれが狭い道を隔てて隣り合ってるのだから、焼夷弾による空襲にはもってこいの標的だった。



1945年3月10日の深夜、0時を回ったあたりで数機のパスファインダー爆撃機が東京にナパーム弾と焼夷弾を落としていった。このパスファインダーは爆弾で東京の上に巨大なXの字となるように2本の線を描いた。この線が遠くからも見える火のシグナルとなり、そこへめがけて次々と他の爆撃機が飛来してきたのだ。



B29は3列を組み、15メートルごとに焼夷弾とナパーム弾を投下していった。これは最大限の被害を与えるためだった。町は瞬時に火の海に包まれ、その炎は数百メートルもの火柱となって天を突いた。熱風の勢いの強烈さは、これが米国の重い爆撃機をまるで羽毛のように上空へと投げ飛ばすほどだった。



日本の対空砲火は火事が迫り、射手の髪の毛や服が焼け焦げはじめても撃つのを止めなかった。時折、命中した爆撃機が夜空から地面に落下し、自分が積載の爆弾にハイオクガソリンの閃光を浴びせることもあった。夥しい数の木造家屋が方々でやみくもに燃えているために火の暴風が起き、それが数百メートルも上空にむかって吹き上がった。







米国の威嚇と復讐の行為 米軍の1945年3月10日の東京大空襲をザハロワ露外務報道官がコメント

昨日, 22:41






こんな状況の中では住民が手ずから掘った防空壕はそのまま住民の墓場となった。火の力はあまりに強く、助けを求めて水場にたどり着いた人たちは文字通り生きたまま煮えた。炎の温度は摂氏1000度に達した。都心は火の海で消え、人体の焦げる匂いは遠く、上空を飛ぶ米軍機のコックピットに座るパイロットでさえ感じたという。ところが米国防総省は東京への絨毯大爆撃に満足感を覚えるだけにはとどまらず、さらに先を進み、広島と長崎に原子爆弾を投下したのだ。





関連ニュース





国内 米国 歴史 第二次世界大戦 軍事











https://sputniknews.jp/20230310/15234242.html





【視点】米国による東京大空襲は、人道に対する犯罪に分類できる





2023年3月10日, 21:23







© Sputnik





リュドミラ サーキャン





広島と長崎への原爆投下は、1942年から1945年まで続いた米空軍による東京やその他の日本の都市に対して行われた大規模な空襲を隠してしまっている。これらの爆撃を発案したのは、ある一人の人物だった。



日本では1945年3月10日、東京大空襲が起きた。東京はこの日、焼夷弾による絨毯爆撃を受け、大規模な火災が発生。様々な推計によると、この空襲で8万人から10万人が死亡した。日本全土で63都市が大規模な爆撃を受けた。1944年末から対日戦略における航空作戦を指揮していた米空軍のカーチス・ルメイ将軍は、大規模な工業工場が集中するドイツの都市に対する空襲戦術は、日本軍には効果がないとの結論を出した。







広島、長崎の前に米軍が行った残酷極まりない未曽有の絨毯爆撃 1945年3月10日の東京大空襲

07:05






フガス爆弾は家屋を破壊したものの、近隣の家屋には被害が及ばなかった。そのため、焼夷弾を優先することを決定した。空襲は日本の防空部隊が爆撃機を追跡できないように夜間に行うことも決定された。1945 年 3 月 9 日未明から10 日にかけて、米軍の B-29爆撃機325 機がマリアナ諸島の空軍基地から離陸し、東京に向かった。その3 時間以内に 1665 トンにもなる焼夷弾が東京に投下された。







© AP Photo

東京大空襲






© AP Photo / U.S. Air Force

東京大空襲






© Sputnik / Yuriy Somov

東京大空襲






この結果、東京の街には激しい火の手が上がり、すべての命が奪われた。それまで東京では10回の空襲で約1300人の市民を失ったが、3月9日未明から10日にかけて、少なくとも8万人が犠牲となった。正確な死者数を確定することはできていない。またこの大空襲で4万人が負傷した。東京の人口の約半数が家を失った。ルメイ自身は、戦争をできるだけ早く終わらせる必要性から、大規模な爆撃を正当化した。











ロシア対外情報庁の退役軍人であり歴史家のレフ・コロルコフ氏は、「戦時中の爆撃を戦争犯罪に分類されるべきかどうかについて、さまざまな意見が存在する」とスプートニクに語っている。





「私の考えでは、これは民間人に対する戦争犯罪、あるいは人道に対する犯罪として正当に分類されるものだ。なぜなら、民間人の命が奪われているからだ。そして、この爆撃を組織した人々は、このことをよく理解していた。この点で、1945年の東京大空襲は、(ドイツの)ドレスデン爆撃と比較することができる。 日本の崩壊はもはや避けられなかった。その頃までに、すでにヤルタ協定が締結されており、ソ連はヨーロッパ戦線終結から2〜3ヵ月後に日本と戦争に突入することを予定していた。米軍司令部は、東京を上空から攻撃することで、日本を戦争から撤退させることを目論んでいた。東京を破壊することで、日本の政治指導者に圧迫感を与えることを期待していたが、うまくはいかなかった。しかし、1945年までの日本の軍事的敗北はすでに決まっていたことであり、これに対する認識はすでに日本にはあったのだが…」




ルメイは、1945年8月に広島と長崎への原爆投下作戦の指揮を執った人物の一人でもある。興味深いことに、ベトナム戦争中にルメイはすでに引退していたが、ルメイの言葉を借りれば「(ベトナムを)石器時代に戻す」べく、北ベトナムへの爆撃を提案していた。





米国 日米関係 オピニオン 東京 国内









(投稿者より)



都市住民の頭上に爆弾を落とすこと、占領地の住民を人体実験の材料にすること、終戦後に引き揚げ中の住民を暴行・殺害することは等しく犯罪だと考えます。