「日本:地震と共に生きる術」(BBC NEWS JAPAN)

「日本:地震と共に生きる術」(BBC NEWS JAPAN)









https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-67860741





日本はいかにして地震と共に生きるすべを学んだのか……前BBC東京特派員





2024年1月2日





ルーパート・ウィングフィールド=ヘイズ、BBCニュース(台北







EPA

金沢市内でも道路や家屋が破壊された(2日)






2011年3月11日の東日本大震災と、それに引き起こされた福島第一原発の事故から、もうすぐ13年になる。





しかし、その記憶は日本では今なお生々しい。そして1日午後になって石川県で揺れが始まり、大津波警報が発令されると、13年前の記憶はあらためてくっきりと明確になった。



地震津波の警報そのものは、日本では決して珍しくない。



私が最初に日本に引っ越したころは、住んでいる建物がわずかにでも揺れれば、私はベッドから飛び起きたものだ。



しかし数カ月もたつと、揺れていても起きなくなった。そして日本に暮らせば地震というのはたちまち、生活の一部になる。地震に慣れてしまうのだ。ある程度までは。



それでも常に、頭のどこかでたえず気にしている。次の大きいのは、いつどこであるのか? うちの建物は大丈夫なのか?



今の日本人にとって、その恐怖はすべて、2011年3月11日に現実のものとなった。



あの時、地面は2分間も揺れた。当時日本にいた人間にとって、こんな揺れは誰も実際に経験したことがないというほどの揺れだった。揺れはいつまでも、いつまでも続いた。



あれを経験した人は、自分があの時どこにいたか、どれだけ恐ろしい思いをしたか、はっきり覚えている。しかし、最悪の事態はその後に起きた。



地震から40分もしないうちに、最初の津波が押し寄せてきた。防波堤を乗り越え、日本の東北地方の太平洋沿岸を何百キロメートルにもわたり襲い、町や村を押し流した。その光景の一部始終は、仙台上空を旋回する報道ヘリコプターが生中継していた。







Reuters

地震で道路に亀裂が走り、乗用車が動けなくなった(2日、石川県穴水町鵜島近く)






翌日は、さらにひどかった。原子力発電所に危機が訪れていたのだ。福島第一原発メルトダウンが始まっていた。何十万人もが避難させられた。東京にいても、安全とは思えなかった。



あの日の記憶は、深い集団的トラウマとなって傷を残した。私はそれから数カ月にわたり東京の新居を探したのだが、妻は地質図とにらめっこしながら、どこなら地盤が一番しっかりしているのか、川から遠い高台なのかを調べていた。妻は、建物の築年数に非常にこだわった。



「1981年以前に建てられた物件は、対象外」。妻の基準は明確だった。



1985年に建てられたマンションに入居するや、私たちは水や食べ物の備蓄を開始した。洗面台の下には、消費期限5年のあれこれが入った箱をぎっしり詰め込んだ。



2011年のあの恐ろしい気持ちを、今回多くの人が追体験しただろう。発表によると、数十人が亡くなったとすでに確認されており、さらに増えるおそれがある。被災地の各地で道路や橋が破壊された。何百棟もの建物が崩れ、多くの人が閉じ込められた。大規模な土砂崩れも起きた。



それでも、大多数の建物はまだ建っている。富山や金沢などの大都市ではすでに、ある程度は、いつも通りの暮らしが戻っているようだ。



近くの新潟県柏崎市に住む友人と話をした。「本当に怖かった」と彼は言った。「ここでこんなに大きいのは初めて経験する。沿岸部から避難する羽目になった。でも今では自宅に戻った」。



非常に大きい被害が出ている。それでもこの地震は、このような災害で被害をなるべく少なく抑えようとする日本の、見事な成功物語でもある。



日本では地震の規模を、マグニチュードだけではなく、「震度」でも表す。地面がどれだけ揺れたかを、震度1から震度7にわけて示すのだ。そして1日の能登半島地震は、最大値の震度7だった。



日本の地震対策の勝利は、1923年の関東大震災と今回の地震による被害を比較すればはっきりする。







Reuters

石川県穴水町鵜島で破壊された神社の鳥居(2日)






100年前の震災では、東京の広範囲で多くの建物が崩壊した。欧州式のれんが造りの建物は、ひとたまりもなかった。



この経験を機に日本では市街地建築物法が改正され、初の耐震規定が盛り込まれた。これによって日本では、新築の建物は鉄筋とコンクリートで補強することや、木造建築は柱を太く強化することが義務付けられた。



日本では、強い地震が起きるたびに、被害状況の調査をもとに、耐震基準が強化されてきた。特に飛躍的な改善となったのは、1981年施行の「新耐震設計基準」だ。



この「新耐震」によって、日本では「震度5強程度の中規模地震では軽微な損傷、震度6強から7に達する程度の大規模地震でも倒壊は免れる」という耐震基準が義務付けられている。



その後1995年に阪神・淡路大震災があり、日本はさらに多くの教訓を得た。



やがて、2011年3月11日にマグニチュード9.0の巨大地震が発生した。東京の震度は5だった。関東大震災と同程度の揺れの強さだった。



1923年の地震では、東京はぺしゃんこになった。14万人が死亡した。2011年の地震では、東京の巨大な高層ビルは激しく揺れ、窓は粉々に割れた。それでも東京で高層ビルが崩れることはなかった。2011年の地震であれほど多くの犠牲者が出たのは、地面の揺れにも増して、それが引き起こした津波によるところが大きかった。



これほどの地震を経験しながら、もっとひどい被害が出ない国は、地球上では日本以外、考えにくい。





(英語記事 How Japan learned to live with earthquakes





関連トピックス 地震 テクノロジー 日本 アジア











https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-67879214





【ルポ】 地震と火災に見舞われた輪島市、救助活動続く 能登半島地震





2024年1月4日



ジーン・マケンジーBBC特派員







BBC記者、輪島市に入る 煙がまだくすぶる朝市通りの火災現場から





漁師町として知られる石川県輪島市は焼失し、倒壊した。





中心部の朝市通りの焼け跡からはまだ煙が上っている。まるでたったいま爆発が起きて、サッカー場ほどの広さを一掃してしまったかのようだ。



火の手は、1日に起きたマグニチュード(M)7.6の地震の後に上がった。急速に燃え広がり、木造の店舗や周囲の家屋を焼いた。灰の中に、ねじ曲がったトタンの破片が落ちている。消防隊はなお煙が上るがれきを掘り起こし、火が残っていないか確かめている。



街全体を見渡すと、伝統的な木造住宅が地面に倒れ、粉々になっている。こうした家屋は、日本の絶え間ない地震に耐えられるようには造られていなかった。



過去12年で最も大きな今回の地震の震央にこれだけ近づくまで、私たちには2日かかった。深刻に寸断された道に行きあたり、戻るのを何度繰り返したか分からない。



救援活動も、こうした事態で遅れている。災害救助犬を伴った救助隊が輪島市に到着したのは、私たちのわずか数時間前だった。



救助隊は午後いっぱいをかけて、倒壊した住宅を一軒ずつ捜索した。それぞれに人がいるのかも、いたとして生きているのかも分からない状態でだ。情報不足が、救助隊の捜索を遅らせている。



1人の女性が、救助隊を見て走ってきた。夫の親族が家屋の一つに閉じ込められていると、この女性は話した。95歳のおばと、その姪(めい)と娘だという。



この女性は、地震が発生してからこの3人と連絡が取れず、ほとんどの避難所でも見つからなかったのだと話した。だが女性の示した家は損傷が激しく、災害救助犬は奥まで入れなかった。救助隊は次の家に移らなければならなかった。



「少なくとも遺体は見つからなかったので、希望はあります」と、この女性は話した。別の住民がやってきて、次は自分の家を捜索してくれと救助隊に頼み込んでいた。







倒壊した家屋に災害救助犬が入り込み、生存者を探している(輪島市、3日)





輪島市は今、ゴーストタウンのようになっている。住民のほとんどが大津波警報に従って避難した。そして今では、自宅が戻れないほど危険な状態まで壊れてしまったからだ。



人影がないなか、唯一音を鳴らしているのは、地震で押しつぶされて作動した車や家の警報機ばかりだ。ある通りの端では、生き残った自動販売機が不気味なほど明るい音を繰り返し流していた。



石川県の発表では、4日午前10時までに、県内で計78人の死亡が確認された。



現時点で最も犠牲者が多いのが輪島市で、44人が確認されているが、今後も増えると予想されている。寸断された道路や土砂崩れにより、市内の一部地域はなおアクセスできない状態だ。



能登半島の他の地域も、孤立状態にある。さらに北の珠洲市は陸路では到達できず、被害の規模が明らかになっていない。



同市の泉谷満寿裕市長によると、市内は立っている家がほとんどない状態で、90%以上が全壊状態にあるという。また、地震発生から1分後に小規模の津波に襲われたと述べた。



食料や支援物資は船で送られているが、市当局者は家屋を一軒ずつ訪ねて生存者を確認しなければならない状態だという。



石川県では4日時点で、3万4000人以上が避難している。また、水道や電気、インターネットの接続が失われている地域もある。



輪島市の避難所に身を寄せている女性の一人は、避難所にも十分な食料や水がなく、唯一開いている店舗には長い行列ができているのだと話した。



岸田文雄首相は4日、被災地で活動する自衛隊員を4600人規模に増強すると発表した。一方で、道路の寸断によって救援活動が滞っていると認めた。



日本は世界でも有数の地震国で、能登半島周辺では2020年末から地震活動が活発化している。能登半島では過去3年間に500回以上の中小地震が起きている。このため、この地域には、大地震を予想していなかった人たちもいた。



82歳の男性はBBCの取材に対し、「地震はたくさんあるけれど、こんなにひどくなるとは思っていなかった」と話した。



最近妻を亡くしたというこの男性は、家の修理費をどうやって支払えばいいか分からないと不安を口にした。



余震も心配事の一つだ。気象庁によると、M7.6で震度7地震が起きた1日午後4時10分から3日正午までの間に能登地方を中心に観測された地震は499回に上る。



地面が揺れる直前に携帯電話から警報音が鳴り響き、人々は家を出たり入ったりする羽目になる。寒さと雨をしのぐため、屋内に引きこもる人もいる。







EPA

輪島市では木造住宅だけではなく、数階建ての建物も被害を受けた(3日)






しかし、過去の震災、特に2011年3月の東日本大震災の記憶が、人々のトラウマを刺激している。東日本大震災では直後に大津波が発生し、2万人近くが亡くなったほか、福島第一原発事故の引き金となった。



それ以来、日本はさらに地震津波に耐えられるようになった。それは人々も同じだ。家屋や道路、原子力発電所はより安全になり、住民はより警戒し、対応に備えるようになった。



それでも、こうした大きな地震は今なお、この国の意表を突き、そして壊滅的な破壊をもたらすのだと、1日の地震は厳然と突き付けた。



ここ能登半島では、「大地震」は起きないだろうという人々の希望が打ち砕かれてしまった。



地球の巨大な力の前に自分たちはなすすべがないのだと、輪島市の人たちはあらためて知ることになった。自分たちは不運なことに、環太平洋火山帯の上に住んでいるのだと。





(英語記事 Eerie search for bodies near Japan quake epicentre





関連トピックス 地震 家族 日本











https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-67883088





【解説】日本の強い地震地殻変動、西へ約1メートルずれる 精緻に観測する日本の地震対策





2024年1月5日





ジョナサン・エイモス、科学担当編集委員







EPA

元日午後に起きた能登半島地震は石川県を中心に、大きな被害をもたらした。写真は、住宅地の斜面が崩れた金沢市の様子






元日午後に日本を揺らしたマグニチュード(M)7.6の地震が、どれほどの威力のものだったかは、地面がどれだけ動いたかでも知ることができる。





国土地理院によると輪島市西部で最大約4メートル(暫定値)の隆起、最大約1メートル(同)の西向きの変動がみられるという。



地震多発国の日本は、揺れる地面を観測する技術がきわめて優れている。だからこそ、これほど正確に計測できるのだ。



国内の要所要所に、全球測位衛星システム(GNSS)の基準点を設置した観測ネットワークが整備されている。地震が発生すれば、国内に点在するこの基準点がどのように動いたか観測することで、地形がどのようにねじ曲がったりずれたりしたかがわかる仕組みだ。



専門家たちは、宇宙空間からも日本を注視し、地震発生前と後の人工衛星画像を見比べている。



宇宙航空研究開発機構JAXA)が運用する衛星「だいち2号」(ALOS-2)は、自分と地面の距離が短縮したと報告した。地震の力を受けて地表が隆起したからだ。



地面が特に大きく動いたのは、能登半島の西側だった。沿岸部の海底が動き、高さ約80センチの津波が発生した。偶然の産物として、地面の隆起によって、沿岸到達時の津波の威力が軽減された可能性もある。



石川県内で5日までに確認された死者は92人に達し、捜索救助活動は続いている。損害予測モデルは、最大100人規模の被害を想定している。犠牲者はたとえ1人でも多すぎるのだが、それでも地震の規模を思えば、驚くほど少ない。



昨年2月にトルコ南東部で起きたM7.8の地震との比較は、意義のあることだ。解放されたエネルギーは今回の地震とほぼ同レベルだが、トルコとシリアでの死者数は5万人超に及んだ。2010年までさかのぼると、ハイチで起きたM7の地震では10万人以上が亡くなった。



違いの理由は簡単だ。備えが違うのだ。





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日本の下では、4枚の大きい地殻プレートが接し合っている。地球上でも最も地震活動の活発な地域のひとつだ。地球上で起きるM6.0以上の約20%は日本で起きる。地震計は平均して5分に1回は何かしらの揺れを計測している。それだけに日本は、国のインフラと国民が地震に耐えられるよう、地震対策に尽力してきた。



建築基準法は厳しく徹底され、市民は地震が起きたらどう行動すべきかよく訓練されている。世界最高レベルの早期警戒システムもある。



科学者は、地震発生のタイミングと規模を予測することはできない。しかし、いったん地震活動が始まれば、さまざまな計器が揺れの波(地震波)を捉え、テレビやラジオ、携帯電話の通信網に緊急速報を出す。これによって、震央から離れている一部の人のもとには、最も激しい揺れが到達する10~20秒前に、警報が届くことになる。



10~20秒と聞くと大した時間ではないと思うかもしれないが、それだけあれば各地域の地元消防署はドアを開けられるし、新幹線や特急列車などの高速列車はブレーキをかけられる。そして、一人一人が身を伏せて、頑丈なものの下に避難し、しっかりつかまることもできるのだ。



そして、「まず低く、頭を守り、動かない」という地震から身を守るための3つの安全確保行動をとることもできるのだ。



(英語記事 How Japan's powerful earthquakes have shifted the land





関連トピックス 科学 地震 日本











https://www.bbc.com/japanese/features-and-analysis-67900433





数百万人に地震速報を届ける、社員13人の日本企業 「NERV防災アプリ」の石森社長に聞く





2024年1月6日





大井真理子、ビジネス記者







Getty Images

マグニチュード7.6の地震に見舞われた石川県輪島市で救助活動に当たる消防員と救助犬






地震が起こるたびに、日本で数百万人が頼りにするX(旧Twitter)のアカウントがある。1日に石川県能登地方でマグニチュード(M)7.6の地震が起きた際にも、多くの人が「特務機関NERV(ネルフ)」から速報を受け取った。





NERVは、正社員わずか13人の会社「ゲヒルン」が運営している。ゲヒルン(Gehirn)はドイツ語で「脳」の意味だ。



社員数は少ないが、その地震速報は時に、政府などの公式アカウントやNHKより速い。NERVの日本語アカウントは220万人以上、英語アカウントでも3万5000人のフォロワーがいる。また、2019年9月に発表されたアプリは400万回以上ダウンロードされている。



2011年の東日本大震災以降、日本では多くの人が防災情報をXから得るようになった。NERVは、気象庁を含む自然災害を追跡している多くの機関からデータを収集し、Xに投稿。地震津波、火山情報以外にも、台風、洪水、大雪などの気象情報も発信している。







Xアカウント「特務機関NERV」が2023年1月1日午後4時24分に投稿した震度図





NERVのアカウントは2010年、当時19歳だった石森大貴氏が開設した。



このアカウントは、大災害後の日本を舞台にした人気アニメ作品「新世紀エヴァンゲリオン」の影響を大きく受けている。アカウント名の「特務機関NERV」も会社名の「ゲヒルン」も、作中に出てくる用語をそのまま使っている。



「NERVは、当時はパロディーのアカウントでした」と石森氏は言う。



Twitterがはやり始めた時期で、APIを使って自動投稿のボットを作るというのがエンジニアの間で流行っていたので、自分もパロディーアカウントから気象庁の大雨警報とかを自動的にツイートするようなプログラムを作りました」



「プログラミングを趣味とするようなアカウントでした」



API(アプリケーション・プログラミング・インターフェース)とは、第三者アプリや研究者などがツイッターを利用する際に必要なデータ。



当初は300人ほどしかフォロワーがいなかった。しかし2011年3月、東日本大震災が石森氏の実家のある宮城県石巻を襲った。



国外では特に福島第一原発事故で知られる東日本大震災だが、津波による死者数は宮城県が最多だ。



この時、石森氏は家族と4日間、連絡が取れなかったという。



「特に11日の夜から12日の朝にかけて何も地元の情報が入ってこなかったので、率直に言って家族は死んだと思いました」



「手を動かしていないといてもたってもいられないというか、じっとしていられなかったので、自分の気持ちを紛らわせるために、ツイッター張り付いて投稿していた」



石森氏の家族は無事だったものの、後日、おばが亡くなったことを知った。





当初は手動 いかに多くの人に届けるか



現在33歳の石森氏は、その時に気づいたことがあったと語る。



「停電でテレビが見られないということもありますし、東京にいたとしても、外に出ている時ってテレビを持ったまま出ているわけではないので、インターネットで情報を取得できるっていうことが大事だと思ったんです」



「テレビやラジオなど、既存じゃないメディアで防災情報を伝えたいなと思って、経路が多様な方がいいだろうと思って、自分がやるんだったらインターネットかなと思って始めました」



当初は手動で緊急地震速報を入力。フォロワーが増えるにつれ、「誰か一人でも使ってくれるなら続けないといけないなということでどんどん自動化を進めていった」と、石森氏は話す。



エヴァンゲリオン・シリーズの著作権を管理するグラウンドワークス社は、「非営利であり、社会的に意義のある活動」だとして、名前などの使用許諾を与えた







Gehrin

NERVのアカウントは2010年、当時19歳だった石森大貴氏が開設した






しかし、米富豪イーロン・マスク氏によるツイッターの買収と改革が、NERVにも影響を与えている。



X社は昨年からAPIを有料化。それまで無料だった自動投稿が、1カ月で1500件までに制限された。



ヒルンは、月100ドルで1日100回の投稿ができるベーシックプランを契約した。だが、1日の能登半島地震の発生に伴って投稿を続けたところ、すぐに使用上限に達した



X社がその後、NERVを「公共アプリ」として登録して制限を解除したため、その日のうちに自動投稿は再開されている。



しかし石森氏は、マスク氏がツイッターを買収する前から、NERVは自社アプリにシフトしてきたと言う。



「やっぱりXにしろ、他のSNSにしろ、他の人のプラットフォームはルールが急に変わることがあるわけで、なるたけ自分たちのプラットフォームで安定的に運営したい」



石森氏のミッションは、常に収益化ではなく、日本を安全にすることだ。



「今自分たちは情報のアクセシビリティーとか、リーチャビリティ、一般の市民がすぐに情報にたどり着けて、誰もが自分に合った方法でアクセスできるということに注力している」



これには、音声の読み上げで情報を聞いたりする仕組みなども含まれるという。







Getty Images

輪島市の朝市横丁は、地震と共に発生した火災で焼失した(5日)






一方で、アプリの成長と共に収益化が必要なことも分かっていると、石森氏は述べた。



ヒルンは2016年、さくらインターネットの子会社となった。また、2020年にはサポーターズクラブを開設。年間1億2千万円ほどのコストをカバーするためだ。



「NERV防災アプリ単体では収益化はまだ遠い話で、かかっているコストの3分の1くらいはサポーターに支えてもらっています」



しかし、サポーターが増えるごとに情報を新しく追加しているため、「使うお金も増えていっているので赤字のままなんです」と、石森氏は笑った。



だがコストがかかっても、昨年導入した強震モニターは、1日の地震で役に立ったと石森氏は言う。



「亡くなったおばの助けになれなかったことを申し訳なく思っていて、自分の中で反省点なんです」



「あの震災を経験したら、次もまた大地震とか大津波が来るって分かるじゃないですか。その時までに情報のアクセシビリティーを解決しておきたい」





(英語記事 The tiny firm that alerts Japan about earthquakes





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(投稿者より)



犠牲となられた方は既に200人を超えていることが判っています。改めて御冥福をお祈りいたします。