日本では大学政策が論争となっており、反発による再考が促されている(DW English):阿修羅♪

日本では大学政策が論争となっており、反発による再考が促されている(DW English):阿修羅♪

http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/274.html











(Backlash prompts Japan to rethink controversial university policy: DW English)

http://www.dw.com/en/backlash-prompts-japan-to-rethink-controversial-university-policy/a-18831857





日本





日本では大学政策が論争となっており、反発による再考が促されている





日本の文部科学省は、哲学や政治科学などの学科を廃止せよと大学に命令したことについて「誤解がある」との報告を出した。しかし、このような過程の廃止が26校でいまなお進行中だ。









下村博文・日本文科相が6月に国立大学86校全てに送った書簡は至って明快かつ明確なものだったか、あるいは、そのようなものと考えられている。大臣は諸大学に、「[社会科学・人文科学]学部を廃止するか、社会の要請にもっと適った学問を提供するよう転換するための積極的な措置」をとるよう要請した。



特に、国立の諸大学は教員養成課程や経済学・法学などの課程を淘汰することに焦点を合わせるよう告げられた。



下村氏はこの動きの根拠として、「大学生の年齢の人口減少や人材の需要…国立大学の機能を考慮した」と述べている。



また、大臣のメッセージでは諸大学への催促として、各大学は資金を中央政府に依存しているという事実が強調された。その高圧的な暗示は見落とされることなく、26大学が今後数年で人文科学・社会科学の諸課程を段階的に廃止していくと明言した。





迅速かつ拡大しつつある反応





産業界・学術界・報道機関・社会から迅速な反応があり、反応は大臣の発表から数ヵ月経つ間に拡大していった。



国立大学協会はこの動きに反対したが、政府の政策から実際に便益を得るはずの分野を代表している日本学術会議も同様に反対した。





6月に下村氏が諸大学に宛てたメッセージは、各大学は資金を政府に依存しているという事実を強調した





同会議は「私たちが今日直面する多様な難題に対応できるよう、より包括的な学問の基礎を作るために、自然科学は勿論、人文科学・社会科学(humanities and social sciences: HSS)でも、緊密に協力することの必要性が今日これまで以上に認識されている」と述べた。



「こうした作業に人文科学・社会科学は不可欠だ」と同会議は付け加え、「人や社会の動き方について批判的な比較・対照・反映を行っていく上で、これらの分野は独特な必須の役割を果たす」と強調した。



日本経済団体連合会経団連)もまた速やかに反応し、日本の企業が切望するものは、全ての高等教育を狭い範囲に誘導するこの政府の取り組みと「全く逆」のものだと、榊原定征(さかきばら・さだゆき)同会会長が述べた。



日本の企業が必要とする学生はそれと異なり、自然科学や人文科学の「異なる諸分野を網羅する発想」を具体化する機能を果たすことができる学生だと、榊原氏は指摘した。



この政策への最も厳しい批判の1つが、ジャパンタイムズが発表した論説に出された。「人文科学・社会科学の学問研究は速やかな経済効果を生み出さないかも知れないが、それらを遠ざけることは自分が専攻する狭い分野にのみ関心を持つ人々を作るリスクを生む」と、論説は述べている。





『批判的な眼』





「文学・歴史・哲学・社会科学の学問は、批判的な眼で社会や政治の展開を眺めることのできる人々を生み出すために不可欠なものだ」と、論説は付け加えた。「こうした意味で、下村氏の動きは、ありのままを無批判に受け入れる人々を生み出すための政府による企てとして解釈されるかも知れない。」



文科省や与党・自由民主党はこの政策への攻撃を看過せず、同党では、これは愛国主義を教育に更に持ち込む企てであり、また、下村氏の動きは教養科目には中身がないからとその精神を履修課程から根絶するための取り組みの1つだという非難が一部から発生した。



この反発は考え方の変化を引き起こしたが、それでも文科省は主張を捨てず、10月1日に公表された新文書は「こうした誤解の払拭」を意図したものだと、同省の女性報道官はDWに語った。



この新文書は、当初の政策に反対する主張の多くは「真実でない」ことを強調し、「教養科目によって養われる多芸の重要性は、明確な答えのない問題を追究していく自主的な能力が求められるいまの時代において、実際に大きくなりつつある」と付け加えた。





納得しない学者たち





それでも、日本の学者たちは省側の抗弁に納得していない。



「ビジネスの仕事ができるような学生たちを養成するために教養科目の教育形態を変えることが当初の計画だったが、圧倒的多数の大学や、さらに、大企業や産業界も反対した」と、コミュニケーション・メディアを専門とする渡部淳(わたなべ・まこと)北海道文教大学講師はDWに語った。



「反対の大きさに省が驚き、無理矢理に鎮静化を図った」と、彼は考えている。





日本の企業は、自然科学や人文科学の「異なる諸分野を網羅する発想」を具体化する機能を果たすことができる学生を必要としていると、榊原氏は語った





「これが名案だと考える人々は自由民主党や省の一部にいることは明らかだが、社会学や哲学などの科目をビジネスの役に立たないというだけの理由で廃止するという視野の狭さは信じ難い」と、彼は語った。



「幸いにも、社会ではビジネスや金儲けが全てではないと社会が官僚や政治家に示すことになった」と、渡部氏は付け加えた。



それでも、この変化に全く反対でない大学−自校の教育分野が潜在的な危機にある一部の国立大学を含む−もある。



「この改革が多くの人が主張するほどの大きな影響を及ぼすことはないと考える」と、国際関係学を専門とする島田洋一福井県立大学教授は語った。



「私は省の当局者と話をしたが、彼らは卒業生の雇用確保を優先していると私にはっきりと言っていた」と、彼は付け加えた。「哲学やフランス文学を学ぶ学生たちは容易に職を見つけることができず、また、彼らは社会にあまり貢献していない。こうした学生たちはこの政策によって、もっと大きな便益を得ることになるだろう。」







発表 2015年11月6日

記者 Julian Ryall, Tokyo

関連テーマ アジア

キーワード アジア日本東京安倍晋三下村博文大学人文科学












(投稿者より)



ドイチェヴェレの英語サイトに掲載された記事です。誤訳があるかも知れません。ご容赦下さい。



私は文学部の出身です。専攻は地理学。理系と文系・科学と非科学の境界にある科目でした。その経験は仕事には役立ちませんでしたが、ここでの投稿には役立っていると思います。具体的な専門知識よりも、この分野特有のものの見方が役立っているように思えます。2011年の3重災害もありましたから、社会にもいくらか貢献したのではないかと勝手に自惚れています。



哲学の講義も受けました。内容は「知覚」のメカニズムについての考察で、教授は「人が対象を直接的に知覚するものであるならば、私たちは例えば自動車を知覚するときに自動車そのものが網膜に飛び込んで来なければならないが、実際はそうでなく、光に反射した自動車の像が網膜に映り、その情報が視神経を通じて脳に入るのだから、人は対象を直接的に知覚しているわけではない」といったことを大真面目に論じていたのを覚えています。居眠りしていた時間が長く聞き逃した説明も多かったですが、何かのテーマについて突き詰めて考えることは大事なことだと思います。



2000年の前後に、哲学の専攻は就職に有利という話を聞きました。「『考える』ということそのものの訓練を積んでいると企業が評価している」というのがその理由でした。ただ、今でもそうかは分かりません。



社会学はセールスには役立ちませんが、組織運営には大いに役立ちます。心理学や言語学も文学部の守備範囲ですが、心理学が有用なのは言うまでもありません。また、1960年代に確立されたチョムスキー(氏はいまなお御健在!)の生成文法の理論は、その後のコンピュータ科学にも大きな影響を与えました。フランス文学も有用だと私には断言できませんが、「人間とは何か」という文学の普遍的なテーマを突き詰める人も社会には必要でしょう。ユーゴーランボーサンテグジュペリもフランス語の使い手でした。



いずれにせよ、多様な考え方や見方を持つ人材を社会全体で抱えることが、社会の危機管理の1つであると考えます。特にいまは社会全体が行き詰まり方向性を見失っていますから、いろいろな人が様々な模索をする中で、その一部の成功例から新たな成長のS字曲線を立ち上げていくことが社会全体にとっても有用なのだろうと思います。



この厳しい時代に、大学も生き残りを模索して就職に役立つ実学的な分野を強化しており、今回の動きも要するに「『国立』というプライドを捨てて時代に合わせよ」ということだと思います。その内容を概観すると、既存の学問領域に填められた枠組みを一旦外した上で、学生たちが咀嚼しやすい形に組み直して、改めて提示し提供する作業に見えます。確かに、私たちは社会の中で時代とともに生きる存在ですから、どこでどのように生きていても共存可能な形に自らを変えていくのは必要なことです。



しかしその一方で、学究による研鑽により学問にも生命が宿り、それが師から弟子に伝えられ、さらに世代から世代へと継承されながら人類の財産になっていくと思います。カントもデカルトもいまではその一部です。今回の動きはその生命を一時期の権勢の都合で弄んでいるようにも見え、知という人類普遍の財産を粗野に扱う政治家や官僚の傲慢さが強く目に映り、その価値を知る方々には不愉快だったことでしょう。単に情報の出し方が下手だったのかも知れませんが、物事を進めるには進め方があるということは分かって頂きたかったです。