「シベリア抑留による死亡者の名簿が公開される」(Sputnik日本・RFI):阿修羅♪
http://www.asyura2.com/15/warb15/msg/535.html
(Sputnik日本)
http://jp.sputniknews.com/japan/20150501/277807.html
日本でソ連抑留中に死亡した日本人の名簿が公表される
日本
2015年05月01日 16:40(アップデート 2015年05月01日 17:01)
日本の厚生労働省は、第二次世界大戦後に旧ソ連が北朝鮮などに設置した収容所で死亡した日本人1万723人の名簿を新たに公表した。
名簿はロシア連邦が提供した情報を基に作成された。最後の情報提供は、2014年11月から2015年2月に行われた。なお厚生労働省はすでに9年前に名簿の一部を入手していたが、公表していなかった。
今年4月、読売新聞は、厚生労働省が収容所で死亡した日本人の情報をロシアから入手したが、「その事実は公表されておらず、死者についての情報は、遺族でも入手が難しかった」と報じた。これに関する読売新聞の記事によって厚生労働省は約1万人の名簿の公表を余儀なくされた。なお、そのうちの多くはまだ身元の確認が取れておらず、漢字ではなく、カタカナで表記されている。厚生労働省によると、名簿の公表が遅れたのは、シベリアなどで死亡した抑留者を優先していたため、だという。
1946年春から約2万7000人の日本人がソ連の収容所から朝鮮半島へ移送された。これは主に病気や衰弱などで収容所での労働に耐えられなくなった人たちだった。そのうちの約1万2000人が亡くなっている。
厚生労働省が公表した名簿には、ソ連ではなく、北朝鮮や中国の収容所で亡くなった2000人超の名簿が含まれている。
日本の降伏後、ソ連軍は満州、韓国、南サハリンで57万5000人の日本人を捕虜としたり、あるいは抑留した。うち5万5000人が収容所で死亡した。その中には軍人だけでなく、戦時中にそれらの地域に住んでいた一般市民もいた。
タグ:露日関係, 第二次世界大戦
(Seconde Guerre mondiale: quand les Japonais (re)découvrent leur histoire: RFI)
http://www.rfi.fr/asie-pacifique/20150508-seconde-guerre-mondiale-quand-japonais-redecouvrent-leur-histoire/
日本|教育|ロシア
発表 2015年5月8日・更新 2015年5月8日14:43
第2次世界大戦:日本国民が自国の歴史を(再)発見するとき
記者 フレデリック・シャルル
第2次世界大戦の戦没者慰霊碑に祈りを捧げる安倍晋三・日本首相、2013年。
REUTERS/Toru Hanai
1945年5月8日にナチスドイツが降伏し、第2次世界大戦が欧州では終結したが、極東では1945年8月15日の日本降伏まで続いた。さらに70年後、日本のインターネット・フォーラムの関心はソ連にいた日本人捕虜に向けられている。大新聞・読売は戦後シベリアの収容所に抑留されていた500,000人以上の日本人についての未公開文書を公表したが、これは最近の歴史を全く、または、殆ど知らない日本のネットユーザーの大部分にとって新たな発見になっている。
第2次世界大戦やその最も暗いエピソード、日本に責任について、日本の学校教科書は「表面を撫でる」ように記述している。そのため、インターネットの出現と共に生まれた日本国民はその大部分が、シベリアの収容所に拘留されていた50万人の日本人捕虜をテーマとした新聞発表の全体に対する反応として、「私は知らなかった」と語ったとしても驚くに当たらない。
1945年8月、この日本軍人たちは中国・朝鮮・樺太・千島で赤軍の捕虜となった。彼らはドイツ人捕虜よりもずっと長い期間シベリアの収容所に抑留された。この日本人の大部分は気温が度々マイナス50度に下がる極東シベリアの強制収容所に10年近く押し込まれることとなる。寒さ・飢え・強制労働による疲労のために、彼らのうち60,000人が死ぬこととなった。
それでは、なぜ自国の歴史に関心が持たれるまでこれほど長い時間がかかったのか?ソ連時代、日本の歴史家たちはこの記録の現物を取得することが出来ず、その間、彼らはシベリア抑留を自分たちの分野における特異な事象と結論づけた。インターネット上では、この日本人たちは自分が捕虜だったことを認めていないと、日本の歴史家の一部は指摘している。確かに、彼らは自分が軍人だったとは認めるが、軍では天皇の命令によらなければ武器を手放したり捕虜となることを承諾しなかった。天皇こそがヒロシマの後に日本の降伏を発表したのだった。
郷愁
収容所の中では、日本人たちは自分たちの伝統や祭りを守り続けながら生き延びた。最も知的な人たちはロシア人政治犯と共にロシア語を学んだ。こうした知識人たちの中にはロシア史やロシア文学を語り合う者たちもいた。
労働環境は非人道的だったが、数多くの日本人捕虜たちがこの囚われの数年間にある種の郷愁を抱いていると指摘しても、少なくとも逆説的ではないだろう。なぜなら、それは彼らが若かった時期の出来事だからだ。
ロシア人は日本人に対してはドイツ人と対照的に、ナチスがソビエトの大地で犯した虐殺行為に関連づけることを決してしなかった。そのことは、収容所内での看守たちやロシア人政治犯たちとの関係に有利に働いた。そうしたことから、日本のインターネット・フォーラムで元日本人捕虜の孫が、士官だった自分の祖父はロシア語ができるようになり、また、ソビエトの全体主義的な権力と一般のロシア人とを区別するようになったと述べている。彼は収容所の外では鉄道建設に従事していたが、ロシア人の生活状況も収容所の中とほぼ同じくらい悲惨だったと指摘している。他に述べることがあるとすれば、日本人捕虜たちの大部分はこの捕囚を不公平と考えている。彼らが帰国する前、ソ連は彼らに1銭も報酬を支払わなかった。ソ連は彼らに就労証明書を1枚も渡さなかった−これは国際慣行に反している。要するに、彼らが捕囚の身にあった期間−10年間−は彼らの年金に算定されなかった。さらに、彼らが帰国して30年以上を経た1990年まで日本政府は彼らに補償金を支払わなかった。
(Sputnik日本)
http://jp.sputniknews.com/opinion/20150507/304955.html
無名の墓はあってはならない
オピニオン
2015年05月07日 21:48(アップデート 2015年05月13日 20:48)
リュドミラ サーキャン
トピック:戦勝70周年
日本の厚生労働省は最近、第二次世界大戦後に現在の北朝鮮、中国東部の大連、ロシアのサハリンに旧ソ連が設けた収容所で死亡した日本の兵士や民間人12130人の名簿を公開した。この名簿はロシア政府が提供し、厚生労働省によって保管されていた。しかし厚生労働省は、「戦後70年がたち遺族が高齢化するなかで、広く情報を公開すべきだ」(NHKより)として、今回ホームページで公開した。
今から70年前、20世紀最大の悲劇の一つとなった、人類史上最も恐ろしい戦争が終結した。この戦争は様々な大陸に住み、様々な言語を話している大勢の人々の記憶の中に深い痕跡を残した。この悲劇の規模は世界史上に類をみなかった。あらゆる戦争はどの国にとっても、どの民族にとっても、そして一人ひとりの人間にとっても恐ろしい試練だ。その戦争の特別なページの一つが、戦争捕虜だ。
第二次世界大戦後、ソ連の30地域に収容所が設置された。アルタイ地方もその一つだった。アルタイ地方には3ヶ所に収容所が設置され、そこには1万7000人以上の日本兵が収容されていた。1946年秋、捕虜たちを祖国・日本へ送還する準備を命じる指令が出されたことが明らかとなった。もちろん喜んだ。しかし喜ぶ代わりに大勢の人たちが泣いた。彼らは祖国へ戻るという幸福が、全ての人に笑いかけてはくれないことを知っていたからだ。1946年、そのうちの多くの人が日本へ帰還した。しかし全員ではなかった。彼らの親族には、自分の父親あるいは叔父などがどこに埋葬されているのかを知り、墓参する権利がある。「露日協会」アルタイ支部のヴャチェスラフ・ノヴォショロフ会長は、このような確信を表している。ノヴォショロフ氏は、ラジオ「スプートニク」からの電話インタビューで、次のように語った。
「1987年に私たちの協会が創立された当時から、私たちは日本の捕虜たちの埋葬地の捜索を行ってきました。アルタイ地方のバルナウル、ビイスク、ザリンスク、ゴルニャクなどに日本の捕虜がたくさんいました。地元の住民やアルタイ国立大学の大学生、また中・高校生などが、捜索でずいぶんと私たちを助けてくれました。古文書と私たちが入手した資料によって、アルタイで亡くなった日本人2317人の名前が明らかになりました。私たちの情報では、2563人が亡くなっています。保管されていた名簿は1990年に日本の団体『日本ユーラシア協会』に渡され、日本の各紙に掲載されました。しかしこの名簿には、アルタイの具体的な埋蔵場所が表記されていませんでした。そこで私たちは捜索活動や、古文書の作業を続けました…」
「露日協会」アルタイ支部のイニシアチブにより、1992年に日本の公式代表団がアルタイを訪問し、初めて日本人の埋葬地を訪れた。日本代表団は、ザリンスクとゴルニャクでの日本人の抑留時代の生活を伝える博物館も訪問した。1993年、バルナウルとゴルニャクに、亡くなった日本の捕虜たちの記念碑が設置された。1994年から1996年までにアルタイ地方から日本に81人の遺骨が運ばれた。2007年には、ビイスクの埋葬地にも記念碑が建立された。そして日本から代表団がアルタイ地方に一度ならず訪れた。
2015年春、アルタイ地方ゴルニャクの第2番学校で学ぶ9年生の女子学生アリサ・ヤンゴリさんが、アルタイ地方の学生たちによる歴史・郷土会議で「1945−1946年のゾロトゥシンスキー鉱山における日本の軍事捕虜たちの生活」をテーマにした研究で1位に輝いた。ヤンゴリさんは、この研究論文の中で初めてそこに埋葬されている日本人捕虜たちの名前を明らかにした。1945年秋、ゴルニャク市に、第511番収容所が設置され、日本軍の元兵士5965人が収容された。収容所は4つの支部からなり、ゾロトゥシンスキー鉱山の敷地内に第6支部があった。戦時下の1942年の困難な時期に鉱山の建設が始まった。戦争で周辺の村や町の大多数の男性が死亡し、鉱山では作業員の大幅な不足が感じられた。これが日本の捕虜たちが鉱山に連れてこられた原因になったと思われる。厳しい気候、病気、憂鬱などが、捕虜の高い死亡率につながった。
ヤンゴリさんは自身の論文では、「残念ながら、私たちは第6支部の捕虜の名前と個人情報を完全に明らかにすることはできませんでした。しかし、保管されていた文書の中から私たちが見つけた死者の名簿は、捕虜部隊のメンバーに関する一定の情報源として役立たせることができます。名簿の分析によって日本人の年齢が20−50歳で、大部分の人が若かったことが分かりました。軍人の階級は、兵長や下士官などもいますが、主に一平卒でした」と述べられている。ヤンゴリさんが集めた資料は今、学校の歴史博物館に展示されている。ヤンゴリさんはなぜこの研究をしようと思ったのだろうか?ヤンゴリさんは、ラジオ「スプートニク」に次のように語ってくれた。
「これは私が取り組んだ2つ目のテーマです。最初のテーマは、私の祖父と、祖父たちの大祖国戦争への参戦でした。日本の捕虜のテーマは、私の故郷の町を観光していた時に思いつきました。私の町には、日本の捕虜の記念碑が設置されています。私の先生が日本の捕虜について話してくれました。それまで私は彼らのことはほとんど知りませんでした。私は日本の捕虜に大きな関心を持ちました。そして先生と一緒に研究することにしました。私にとってこれは非常に価値のある情報でした。私はこの日本の捕虜たちに関する書籍などを読みました。彼らはまるで私にとって近しい人たちのように感じました。なぜなら彼らは私たちが住むこの地で働いたからです。日本の捕虜たちは、私が7年生まで学んだ第1番学校を建設しました。この建物は今も残っています。私は、先生と共同で行った私たちの研究は、非常に時宜を得たものだと考えています。なぜなら今、70年前に戦った人たちから残されているものは、記憶しかないからです。また私は、この記憶を保存する責任を感じています…ここに埋葬されている日本の捕虜の名簿を見つけたとき、このテーマの研究を続けたいという願望が沸き起こりました。もし私が自分の町ゴルニャクで日本人と会う機会があったなら、私は日本の人たちを墓地に案内し、この墓地に眠っている人たちのについて私が知ったことをお話するでしょう。そして、ここに埋葬されている日本人のことで、日本の人たちが知っていることについて尋ねるでしょう。今、私と同年代の人たちの間では、古い文書などが引っ張り出されて、調査のために検討されています。なぜなら自分たちの血統に関心があるからです。私は、日本でも自分の親族や過去の世代に興味が持たれているのか知りたいです…」。
ヤンゴリさんとノヴォショロフ氏は、アルタイのゴルニャクに埋葬された約180人の日本人の名簿をラジオ「スプートニク」に提供した。これまで、この名簿が公開されたことはなかった。ヤンゴリさんとノヴォショロフ氏は、アルタイの地に眠っている日本人の名簿を公開することで、彼らの親族を探し出す助けになるかもしれないと考えている。ノヴォショロフ氏は、次のように語っている。
「祖国に戻ることのできなかった日本の捕虜たちも戦争の犠牲者です。そして彼らの親族は、自分の父親や祖父の運命を知る必要があります。日本には、故人の遺骨を祖国に埋葬する習慣があります。ですが、常にその可能性に恵まれるわけではありません。遺骨の一部は祖国へ帰還しましたが、一部は私たちの地に残りました。私たちは日本大使館に、埋葬されている人々の名簿を添えて書簡を送り、遺族を見つけるようにお願いしました。日本ユーラシア協会愛知県連合会などの日本の社会団体にも同様の書簡を送りました。ですが、まだ返事はもらっていません。もしラジオ局のお陰でこの名簿が日本で知られるようになったら素晴らしいことです。私たちは戦勝70周年までに、無名の墓をなくしたいのです。彼らの子供、孫、ひ孫たちがみつかって、彼らが墓参できるように…」。
第二次世界大戦は、参加した全ての国に計り知れない不幸をもたらした。恐ろしい戦争から70年が経過した。参戦者の大多数がすでにこの世を去っており、生きてきる人々の中では、体験の記憶が消え去ろうとしている。そのため、過去を単に記憶するだけでなく、新たな戦争を防止するために、過去の教訓を学ぶことが私たちの義務だ。そしてまさに若者たちは、地球の平和が誰の腕にかかっているのかを考える必要がある。
ラジオ「スプートニク」はすでにアルタイで死亡した日本の捕虜の名簿の日本語翻訳に取り掛かった。翻訳終了後、名簿はスプートニクのサイトに掲載いたします。
© Sputnik/ Ludmila Saakyan
無名の墓はあってはならない
トピック:戦勝70周年 (57)
(投稿者より)
スプートニクとRFIの両サイトに掲載された記事です。仏文和訳には間違いがあるかも知れません。ご容赦下さい。
指摘があった読売新聞の記事がこれのようです。そして、厚生労働省サイトで公表された名簿がこれです。
「日本のインターネット・フォーラム」"sur la Toile japonaise"、フランス語圏に« Sur la Toile »(カンバスの上に)というサイトがあるようです。『ヤフ知恵』を高級にしたようなものに思えます。ただ、具体的に何のフォーラムで、そこで具体的にどのようなやりとりがあったか、などは分かりませんでした。
以前、『阿修羅♪』に過酷な抑留生活についての投稿があり、私がコメントを付したことを思い出し、そのコメントを再掲します。
1. 無段活用 2010年11月07日 12:42:33: 2iUYbJALJ4TtU : PG1nqWSNAg
20〜30年くらい前、シベリア抑留について旧ソ連(まだ旧体制の時だったと思う)に補償を求める世論がわき上がったことがあった。記憶に頼る不確かな記述で申し訳ないが、確か代表団とソ連側で交渉が持つたれたはずだ。
ソ連側からは率直な謝罪があった。しかし一方で、このような反論もあった。
強制収容所の待遇は確かに過酷なものであったが、当時、内外の多くの国籍の収容者の中で、収容者としての待遇はみな同じであり、日本人であることを理由とした、抑留者への差別は一度たりともなかった。また、武装解除の際に、食糧不足のため、日本兵は三ヶ月(確か三ヶ月です)分の食料を持参すると関東軍と申し合わせたはずだが、これが実行されなかった。それがあれば、犠牲は多少は軽減されたはずだ。
その記事が出て以来、シベリア抑留関連の記事は一時期さっと消えた。私は新聞でこれを読んだ。以前ネットで調べたときに、この記事は拾えなかったが、調べれば縮刷版があるはずだ。
戦争は悲惨であり、抑留所の方々の苦難は察するに余りある。語り部の方々の体験は貴重で、後世に受け継がれなければならない。しかし、日露関係が微妙なこのときなだけに、このような記事は慎重に扱い、慎重に読む必要があると思う。
ソ連時代の末期に持ち上がり一度は鎮静化した問題でした。それが、ウクライナ問題・南シナ海の問題・安倍氏の訪米などにより、「米日」陣営と「中露」陣営が対峙する状況が明確になったことを背景にして、再びこの問題が浮かび上がってきたようです。あるいは、それでも日露関係を繋いでいきたいという意思の表れとして、逆にこの件を利用しようという動きかも知れません。
プーチン氏の登場まで日本の対露感情は非常に悪かったですが、それは主にシベリア抑留など第2次大戦にまつわる旧ソ連の行動に対する日本国民の怒りが解けなかったからでした。それがこのように情報開示を進めることから、日本の国民感情を解きほぐしていこうという意図があるようにも思えます。