日本の困難な過去との和解 (DW English):阿修羅♪

日本の困難な過去との和解 (DW English):阿修羅♪

http://www.asyura2.com/15/warb15/msg/792.html











(Japan's difficult reconciliation with its past: DW English)

http://www.dw.com/en/japans-difficult-reconciliation-with-its-past/a-18647603





第2次世界大戦





日本の困難な過去との和解





第2次世界大戦終結から70年を経た今もなお、日本は戦時中の過去と距離を置くことに困難を感じている。DWがその背後にある理由と、日本がこの点でドイツとどう違うのかを概観する。











日本は第2次世界大戦の敗戦から何も学ばず、無意味な苦しみに耐えなければならなかったのか?この東アジアの国で近年成長しつつある国家主義的感情と、国の歴史を修正しようとする政府の傾向から、このような疑問や仮説がだんだんと生まれつつある。



また、安倍晋三首相のこれまでの声明や行動がこの見方を強化している。というのは、彼は戦争中に日本が犯した犯罪について、彼の前任者たちによる謝罪と距離を置いているように見えるのだ。安倍氏は日本の多くの首相のように、論争となっている靖国神社に参拝している。靖国では有罪を宣告された戦犯たちが戦死者たちと共に祀られている。





コンセンサスがない





それでも、安倍首相や彼の助言者・支援者の一部が表明した国家主義は、戦時中の過去に向けた日本国民の意識についての複雑な現実に真の洞察を提供しているわけではない。これを背景に、政府による「記憶についての政策」と社会一般の考えの間で分裂が続いていると、日本専門家たちは指摘する。



「全体として、戦時中の過去を記憶するという問題は、多様な目的や利益がそこに内包されるために日本では大きな論争となっている」と、ベルリン自由大学のセバスティアンコンラッド氏がDWに語った。日本は、この問題について政府・議会・国民の大多数の間で抱く見解に大きな相違がなかったドイツと異なり、これが相当に異論の多い問題となっている。





2013年、安倍氏が論争となっている靖国神社に参拝したことから、中国と韓国で抗議行動が発生した





「成功のためには2つの側が必要だ」





日本の戦後の政府は、戦争犯罪には国が責任を持つとの見解を保持し続け、日本はこれに沿って経済援助を実施し2国間の賠償規定を取り決めた。さらに、国際的な理解を目的としたさらに進んだ運動−例えば、韓国との共通歴史教科書の編纂を模索すること−を行ってきたが、その一方で、「政治家たち自身からこうしたものは出てこなかった」と、ドイツのハレ・ヴィッテンベルク大学の日本専門家ゲジーネ・フォリャンティ氏は語った。



アジア専門家のイアン・ブルマ氏はDWのインタビューで、日本は交換学生プログラムや姉妹都市提携をアジア諸隣国と実施しているが、欧州と比較してその規模は小さいと語った。しかし、彼は同時に「こうした構想が成功するには2つの側が必要だ。中国と韓国が受容的でなければならないが、状況が常にそうあるわけではない。」



その上、中国と開かれた対話を持つのは容易でない。なぜなら、現代政治の問題と同様に歴史の問題でも意見は厳しい統制を受けているからだ、と彼は付け加えた。「おそらく、日本が和解のためにもっと働きかけるべきだが、日本が一方的そうすることは不可能だ。」





米国のダグラス・マッカーサー将軍(左)と日本の裕仁天皇(右)がこの写真に見られる。日本降伏後の1945年10月、マニラで撮影





ヴァイツゼッカー氏の演説





1949年ドイツの憲法である「基本法」が可決されたとき、テオドール・ホイス氏−自由民主党(FDP)党員で後に大統領になった−は、1945年5月8日にドイツは破壊と解放を同時に受けたのだ、と語った。この言葉は、1985年にリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏が行った称賛の高い演説のかなり以前に、ドイツの軍事的敗北について2つの見方が既に存在していたことを示している。ヴァイツゼッカー氏の演説ではこの日を「解放の日」と述べている。



この演説は日本でも肯定的な反応を得た。セバスティアンコンラッド氏は次のように説明する。「それは様々な形で取り入れられた。演説が実際に行われた2年後にはもう翻訳され、出版され、幅広く流布していた。特に、それはもっと明確な姿勢を公式に示すよう日本政府に促す目的で、権利活動家や知識人たちに引用された。」





1985年のヴァイツゼッカー氏の演説は日本で肯定的な反応を得た





しかし、歴史家であるブルマ氏は、戦時中の歴史についてこのような2通りの見方が日本に現れる見込みはなかったと指摘する。「まず最初に、戦争の歴史自体が全体的にドイツに準えられるわけではない。日本にヒトラーはいなかったし、ナチ党すらなかった。日本帝国が戦争を行った相手はアジアに存在する欧米の帝国主義勢力だった。」





米国への日本の固着





米国にとって、日本の戦時中の歴史の再評価は、東京の軍事法廷で日本の最も重要な政治・軍の指導者に判決が言い渡された時点で終わっている。さらに、米国の主な関心はニュルンベルグ裁判以後のドイツと全く同じように、後に続く共産中国やソ連との冷戦で信頼できるパートナーを得ることだった。



それでも、コンラッド氏が指摘するように、この点では日本とドイツに大きな違いがある。「日本は西側同盟に統合されたものの、国の戦後政策は米国の政策に密接に結びついていた。その結果、地域的な背景から日本が切り離される結果をもたらした。」ここが、フランスとの友好関係によって動かされた「ヨーロッパ計画」に当初から参加したドイツと異なった点だ。



対照的に、「責任があるという感覚やアジアの諸隣国から批判を受ける側に立つという感覚が日本に欠けることとなった」と、コンラッド氏は語った。冷戦が終わって初めて、日本は中国・韓国・台湾からの批判の声に気づくようになった。





道を開く





結果として、日本政府は1990年代半ばになって自己批判を実際に行い公的な謝罪を発表したいとの意思を示し始めた。日本の首相たちは、1995年の第2次大戦終結50周年機会と1998年のいわゆる「慰安婦」問題の際に、公式な謝罪の姿勢を示してその道を開いた。





村山富市元首相は、日本が戦時中の武力侵略ついて改めて謝罪するよう安倍氏に促した





それでも、コンラッド氏が指摘するように、こうした姿勢はヴィリー・ブラント独連邦首相がワルシャワで跪いたものほど象徴的でも自発的でもなかった。「そのため、日本の謝罪は同じような影響を及ぼさなかった」と、このアナリストは説明した。



それでも日本ではそれ以降、国会・政府双方の国家主義者のグループが日本の戦時中の歴史をどう解釈すべきかについてストーリーを作り直して風向きを変えていったと、この専門家は強調した。



中国が東シナ海の紛争や諸隣国との類似の紛争で強引な立場を示したために、日本に改めて国家主義的傾向が現れている。それでもなお、安倍晋三・日本首相は地域の緊張を緩和するために、来る第2次大戦終結70周年の節目となる演説で「謝罪」と「侵略」の言葉を使うだろう。







発表 2015年8月13日

記者 Hans Spross / gd

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キーワード 日本東京安倍晋三第2次世界大戦国家主義