ヒロシマの生存者がハンブルクで戦争の様々な悲劇を伝える(DW English):阿修羅♪

ヒロシマの生存者がハンブルクで戦争の様々な悲劇を伝える(DW English):阿修羅♪

http://www.asyura2.com/15/warb15/msg/627.html











(In Hamburg, Hiroshima survivors share tragedies of war: DW English)

http://www.dw.de/in-hamburg-hiroshima-survivors-share-tragedies-of-war/a-18497055





原子力





ヒロシマの生存者がハンブルクで戦争の様々な悲劇を伝える





彼らは日本の原爆投下を直接経験した。今、こうした「核兵器に反対する大使」たちは軍縮のために闘っている−そして、世界一周船旅でハンブルクに立ち寄った。









その時市街電車に座っていた三宅信雄氏の見たものは、青と白の閃光だけだった。「私は電気がショートしたと思った」と、86歳の三宅氏は語った。1945年8月6日の朝、彼は登校途中だった。爆心からたった2km(約1マイル)離れた場所にいた彼は、本能的に正しい選択をした。電車から飛び降りたのだ。「その時地獄のような爆風が私の両足を叩くように抜けた」と彼は語った。そうして彼は命を救われた。他の多くのヒバクシャ−歴史の最も残酷な瞬間を目撃した彼らは日本でそう呼ばれている−のように、三宅氏はその後数十年間沈黙を守り続けた。



今、その米国による広島・長崎への原爆攻撃の生存者たちは、ハンブルクの第2次世界大戦の生存者たちと一緒にパネル討論会の席に座っている。多くの学生たちを前に、忘れられることのないよう、そして、戦争がなくなるよう、彼らは声を上げている。





「戦争が何を意味するか、皆さんは忘れてはいけない」と、ローレ・ビュンガー氏は語る。彼女はアドルフ・ヒトラーの熱心な支持者だった。「しかし、私たちが地下壕で時間をずっと過ごし、爆弾が落ちる度に恐怖で縮こまっていた時に、私は間違っていたと気づいた。」



ハンブルク市長のオーラフ・ショルツ氏は米国による原子爆弾の生存者にも招待を広げた。この港町と日本は、主に貿易に基づく伝統的に良好な関係にある。その上、ショルツ氏は平和首長会議のネットワークのメンバーで、この団体もまた生存者たちがピースボートで世界を旅行する企画を支援した。この船は現在ヴァーネミュンデの港に投錨しており、そこから旅行を続ける予定だ。次の停泊地はコペンハーゲンピースボートには揺るぎないミッションがある。それは、戦争は2度としない、核をこれ以上拡散させない!





米国が原子爆弾を投下した影響により250,000人もの人々が死亡した





ピースボート:その名が全てを語る



ショルツ氏は短いスピーチの中で、70年前に投下された原子爆弾の「衝撃」−つまり、現在ヒロシマナガサキの名が意味する様々なこと−について言及した。そして、ドイツで今日まで課題として続く、ナチスの独裁と向き合うという「苦痛を伴ううんざりする」作業についても言及した。



伊藤正雄氏はショルツ氏が言わんとすることを十分良く理解している。「私たちは最終的にアジアの隣人たちとの関係を改善しなければならず、そうした点を私たちはドイツから学びたいと考えている。」彼は、政治家たちがこれを理解する必要があると考えている。「日本とドイツは侵略者だったが、被害者でもあった」と伊藤氏は語った。「その事実を誰もが理解しなければならない。」





生存者たちはピースボートで旅行中だ





この攻撃の犠牲者を偲ぶことは今日の日本の国家価値や記憶の文化にとってかなり大きな部分だ。それでも、国としての謝罪の文化はいまなお見られない(投稿者によるリンク記事の和訳。諸隣国はそのことを事あるごとに指摘している。アンゲラ・メルケル連邦首相が先日の日本訪問でそうしたようにだ。





戦争の罪をどう扱うか?



ビュンガー氏は助言を与えることを憚りながらも、パネル討論会の最年長の参加者として「洞察は役に立つ、そして、語り合うこと」とだけ述べた。





ビュンガー氏はコミュニケーションを勧める





原爆攻撃の生存者と1943年の大火の生存者との間の討論が聖ニコライ教会で行われたのは偶然の一致でない。この教会自体が平和の記念碑なのだ。その鐘楼は第2次世界大戦の間、米国と英国にとって爆撃のための標的を示す目印であり、また、教会はゴモラ作戦の期間中の1943年7月28日に激しい損傷を受けた。今日、教会の主要な建物の遺跡の中に作られた博物館が、戦争の犠牲者と1933年から1945年の間の国家社会主義による独裁政治の犠牲者の記念碑になっている。そして今その場所で、信管を外され錆び付いた爆弾に囲まれ、破壊されたハンブルクの写真や瓦礫の破片に囲まれ、パネル討論会の参加者たちは座って討論している。



「平和を求め核拡散に反対する活動家として、皆さんが日本で最も心配していることは何か?」と学生の1人が尋ねる。その答えは皆が同じだ。平和を土台にした日本の憲法の見直し。先頃、安倍晋三氏は憲法の「解釈変更」を断行した。これは交戦のための武力行使の放棄を成文化した第9条を実質的に無効にするものだ。そのため、新しい防衛戦略は1947年から続く平和主義を根本から逸脱している。三宅氏はこのことを心配している。「私たちは70年間平和を守ってきたが、これは特に第9条に基づいて武力を放棄してきたからだ。私たちは今や軍国主義に移行しつつある。」



ビュンガー氏は熱心に聴き入り、それから、ハンブルク反戦博物館の地下墓地での討論が終わりつつある時にこう言った。「ただ、皆さんの子供たちを平和に育てて下さい。」







発表 2015年6月4日

記者 Volker Witting / js

キーワード 広島長崎原子爆弾日本ハンブルクピースボート








−参考−



被爆者の声 〝電車から飛び降りて助かった〟(1) / 三宅信雄さん







被爆者の声〝電車から飛び降りて助かった〟(2) / 三宅信雄さん













(投稿者より)



ドイチェヴェレ(英語)サイトに掲載された記事です。



これは独文の元記事の英訳です。英文が分かりにくい部分は元記事も参考にしながら訳出しています。独文に合わせた箇所もあるので、英文と和訳に一部食い違いがあります。また、誤訳もあるかも知れません。ご容赦下さい。



参考として、記事で言及のあった三宅氏の被曝体験談を付しました。こちらも是非ご覧下さい。