「東京大空襲から70年」(DW English、BBC、イランラジオ日本語):阿修羅♪

東京大空襲から70年」(DW English、BBC、イランラジオ日本語):阿修羅♪

http://www.asyura2.com/15/warb15/msg/306.html











(Tokyo firebombing - survivors recall most destructive air raid in history: DW English)

http://www.dw.de/tokyo-firebombing-survivors-recall-most-destructive-air-raid-in-history/a-18300080





第2次世界大戦





東京の空襲−生存者たちは歴史上最も破壊的な空襲を思い出す





1945年3月9日から10日にかけての夜に行われた東京の爆撃空襲で、推定100,000万人の人々が死亡した。同時に、100万人が家を失い市内の41平方kmが焼け野原となった。











米国の爆撃機が死の荷物を東京上空に放ったときニヘイ・ハルヨさんはほんの8歳だったが、その夜やその後の数日間の恐怖は彼女の記憶に焼き付いている。あれから70年が経たが、彼女は自分の記憶力を呪わしく思うことがあると語る。



「私は昼間友達と遊び、その後母に呼ばれて簡単な食事をとり、私たちは床に就いた」と、彼女はDWに語った。「私たち子供にとっていつもの普通の1日だった。」



ニヘイさんや両親・兄・妹にとってそれが変わろうとしていた。



この家族は東京都心の北西にある、市内の労働者階級の住宅街である江東区に住んでいた。この地域では小さな木と紙の家がひしめくように建ち並び親密な地域社会が形成されていた。彼女の両親は都内の食堂に香辛料を売る事業を営んでいた。



彼女の記憶では午後10時30分頃に最初のサイレンが鳴ったが、彼女の父は戸外を見ると特に心配するものがなかったため、ニヘイさんは再び眠りに就いた。「少し経ってから父が部屋に駆け入って、今夜の空襲は違うから起きるようにと私たち皆に言った」と、彼女は語った。家を出ると、南の空が赤く不気味に輝いていたと彼女は覚えている。





東京の空襲を生き延びたニヘイ・ハルヨさん(右)とタケウチ・シズオさん(左)





地下の避難壕



家族は地下壕に避難した。壕内では爆発音や子供を呼ぶ母の叫び声や両親を呼ぶ迷子の叫び声が最高潮に達していた。ニヘイさんの父は、火が近づいているから壕内に留まれば自分たちは「生きたまま焼かれる」だろうと察して、一目散に走らなければならないと家族に言った。



「その夜は風が強く、私が壕を出ると私の周りで目に見えるのは火だけだった」と彼女は語り、「燃えている衣服や畳や瓦礫が吹き飛ばされて路上に落ち、火の川が流れているように見えた」と付け加えた。



「私たちのような他の家族が手を握って火の中を走り抜けているのを覚えている」と、彼女は回想する。「母の背中で赤ん坊に火がついているのが見えた。火がついた子供たちを目にしたが、子供たちはそれでも走っていた。道路が余りにも熱いのでそこに倒れ込んだ途端に火がついた人たちを目にした。」



混沌の中で彼女は両親と離れ離れになり、なぜか焼けずに残っていた壁を後ろに人々が火を避けるように小さくかたまっていた場所に最終的にたどりついた。しかし、炎はどんどん近づいてくる。意識が消えたり戻ったりしながら、彼女は自分の周りや上で人の身体に押されるのを感じていた。





積み重なった死体



夜が明け始めると奇跡的に火は消え、ニヘイさんの父親が彼女を見つけて彼女の上に積み重なった死体から彼女を引き出した。見分けがつかないほどに焼け焦げた死体が彼女を同じような運命から救ったと、彼女は語った。





空襲は東京の広大な区域を破壊し尽くした





彼女の家族は全員ミーティングハウス作戦を生き延びたが、東京の広大な区域が破壊し尽くされた。



合計279機の超空の要塞・B29が空襲に参加し、1,665トンの爆弾を日本の首都に落とした。その大部分は230kgのクラスター爆弾で、その爆弾1個が高度約750mでナパーム弾を搭載した小型爆弾38個を放出した。



こうした兵器は、元々住宅地域だった場所の壊れやすい家や学校・病院を直接焼き尽くす能力を持っていた。



100,000人の死者の他に、推計約125,000人が負傷し150万人が家を失った。この空襲はドイツの都市ドレスデンの攻撃と比較されるが死者はこちらの方が多く、また、5ヵ月後の広島・長崎原爆攻撃による即死者数よりも多い。この火の嵐は、日本の戦争遂行のための装備を量産していた数え切れない小企業も破壊した。





恐ろしい記憶



タケウチ・シズオさんはこの攻撃について同じような恐ろしい記憶を持っている。「当時は毎晩のように小さな空襲があったので、私たちは壕に早く行けるよう常に衣服を着込んで床についていた」と、84歳の彼女は語った。「空襲のために私はいつも怯えていた」と、彼女はDWに語った。「私たちが敵を見ることはなかったが、それでも私は戦争遂行のため電線を作る工場に働きに行かなければならなかった。」





合計279機の超空の要塞・B29が空襲に参加した





武内さんも空襲が始まると壕に駆け込んだが、炎が彼女の家族を打ちのめそうとしたときこの家族も走ろうと決断した。「私は両親と手に手を取って一晩中走った」と、彼女は語った。



「私たちの上で飛行機のエンジンがうなる音が聞こえ、それらの暗い影が夜空を行ったり来たりしていた。」



翌朝、都内全体が全くの静寂に包まれたと彼女は語った。「人々が列をつくってそれまで家のあった場所に戻ったが、皆ただ黙っていた」と彼女は語った。「そこには煙と灰があり、私は酷く焼けた人たちを見た。死体は至る所にあったが、余りに酷く焼けていたために誰にも死体を見分けることができなかった。」





無声映画の中のようだった」



「それは無声映画の中のようだった」と彼女は語った。路上をのろのろと歩く老女を目にした。歩道の上に大きな固まりが見えたが、それは人間だったものだと分かった。あの夜から70年が経ち私は忘れてしまったこともあるが、それでも、その時のことを突然思い出すことがある」と、彼女は語った。





米国は東京空襲の5ヵ月後に、広島と長崎に原爆を落とした





ニヘイさんとタケウチさんの2人は、東京大空襲・戦災資料センターのサポーターを務めている。同センターは2006年、この攻撃で大きな被害を受けた区域の中心に開設された。



「この場所にこの施設があるのは私たちにとって特別な意味がある」と、タケウチさんは語った。「私は米国人が嫌いではないし恨む気持ちもないが、ここで何が起こったかを未来の世代に知って貰いたいと強く望んでいる。」



「大部分の人たちは何が起きたかを本当には理解していないと私は思う」と彼女は語った。「戦争では、弱く傷つきやすい人々−女性・高齢者・子供−があまりにも頻繁に犠牲者となることを、私たちは示したいと考えている。」







発表 2013年3月6日

記者 Julian Ryall, Tokyo

関連テーマ 第2次世界大戦アジア

キーワード アジア日本東京爆弾攻撃第2次世界大戦米国空襲














(Japan marks 70th anniversary of Tokyo firebombing: BBC NEWS ASIA)

http://www.bbc.com/news/world-asia-31812345





2015年3月10日 最終更新11:57





日本は東京空襲から70年を迎える





死亡した数万人の記念法要が霊廟で行われた






日本は、第2次世界大戦中に100,000人以上が死亡した米軍による東京空襲から70年目の日を迎えた。



1945年3月10日、米軍のB-29爆撃機が爆弾の雨を降らせて東京の大部分を破壊した。



その死者は同年の長崎への原子爆弾攻撃による死者70,000人を超えた。



この出来事は広島・長崎の原子爆弾のために目立つことがなく、国内では比較的わずかな注目しか受けていなかった。





安倍晋三首相は毎年行われるこの行事に現職首相として初めて参加した






火曜日、安倍晋三首相をはじめ数百人の参加者が東京メモリアルホールに集まった。





「私たちは謙虚に過去に向き合い、悲惨な戦争から得た教訓を心に留め続けることによって世界の恒久平和に貢献するために最善を尽くしていく」と、安倍氏は式典で語った。





この2枚の写真は最初の破壊と空襲後の再建を示している





アンゲラ・メルケル独連邦首相は2日間日本を訪問し安倍氏と会談した。



火曜日、彼女は日本と中国・韓国の関係をめぐる敏感な部分に触れ、「慰安婦」−戦時の日本軍の売春宿−の問題を解決するよう日本に促した。





安倍氏は年内に戦時の侵略行為について声明を発表する予定だ





メルケル氏は月曜日の記者会見で、日本はドイツの例に倣うべきであり、また、戦時の歴史についての解決は「和解の必要条件」だと述べた。



しかし、岸田文雄・日本外相は日本とドイツの比較は適切でないと応じた。



「背景が−戦争中に日本とドイツで起きたことやどの国が隣国か−違う」と、岸田氏は記者たちに語った。



メルケル氏の意見は、日本が第2次大戦敗戦70年目の節目を迎える準備に合わせる形となった。



安倍氏は日本の戦時の歴史について年内に声明を発表する考えだが、同氏は日本の戦時の侵略行為にあまり罪悪を感じていない国内の保守層の1人だ。



そのため、安倍氏が2012年に首相に就任して以来、中国・韓国との緊張は激化している。










(イランラジオ日本語)

http://japanese.irib.ir/news/latest-news/item/52871-%E6%95%B0%E5%8D%81%E4%B8%87%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%AD%BB%E3%82%92%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84





2015/03/11(水曜) 23:36





数十万人の死を忘れてはならない









夜中にB29爆撃機の音が聞こえました。東京は、激しい揺れによって眠りから覚めました。この爆撃機から、東京の罪のない人々の頭上に焼夷弾が投下されました。それは、それまでに見たことのない光景でした。





焼夷弾には、原油のような火炎放射的な物質が使用されています。これらの爆弾は、河川や水路をも燃やしました。もしそれが誰かの上に落ちれば、肉が骨に残っている限り、燃やされます。



東京大空襲を経験した91歳の女性はこのように語っています。「爆撃機はトンボの襲来のように空を埋め尽くしていた。あらゆる場所で焼けた遺体が見られた」



清子さんは、91歳。彼女は現在、東京に住む高齢者のグループに加わり、1945年の原爆投下における父と姉妹の死の記憶を蘇らせようとしています。その爆撃は、3月10日に行われ、一夜で10万人が死亡しました。



男性たちは、日本の土地を離れた遠くの場所で戦っていました。そのため、犠牲者の多くは、女性や子供たちでした。しばらく後、アメリカで行われた研究によれば、このときの攻撃では、歴史の中で、一度の攻撃による犠牲者の数では最悪のものだったということです。



東京大空襲を皮切りに、日本の別の都市も爆撃を受けました。こうして最終的に、8月には広島と長崎に原爆が投下されました。8月15日、爆撃機による攻撃は終結しました。その結果、多くの都市が廃墟と化し、50万人以上が命を落としました。中には、日本の天皇も、ドイツ・ナチスと同じように罰を受けるべきだと考えています。それは、南京大虐殺などを理由にしたものです。



ニューヨーク・コーネル大学歴史学者は、「ドイツのドレスデンが、東京の1ヶ月前に爆撃を受け、ヨーロッパに懸念が広がった。だが、さらに大規模に行われた日本の他の都市への爆撃は、アメリカとヨーロッパには特に懸念を広げることはなかった」と記しています。



広島と長崎には、広島平和記念館と原爆資料館がありますが、東京には、民間の東京大空襲・戦災資料センターがあります。こうした中、2010年には、数人の市民が、政府に対し、東京都横網町公園内に慰霊堂を建設するよう求めました。彼らは、東京大空襲で亡くなった方の遺骨を納めるよう求めました。こうして、東京都慰霊堂には、関東大震災も含めた身元不明者の16万を超える遺骨が安置されています。



ドイツのメルケル首相は、日本を訪問した際、安倍首相に対し、過去を直視すべきだとしました。メルケル首相は、「過去に目を閉ざす者は、現在に対しても盲目になる」と語りました。メルケル首相が引用したのは、ドイツのワイツゼッカー元大統領の1985年のスピーチです。



東京に暮らすアメリカ人の小説家のブレット・フィスク氏は、1945年について記しています。彼は、日本政府は、戦後、犠牲者を追悼するための十分な気持ちの整理や資金を有していなかったとしています。戦後もしばらく、アメリカと政治的に向き合う意志は、日本政府には見られませんでした。実際、アメリカ政府は、冷戦時代、日本政府の新たな同盟工になっていました。その明らかな例は、日本が1964年に最高の賞をアメリカ軍の関係者に授与したことでした。



東京大空襲・戦災資料センターの建設計画が提起されたのは、1990年代のことでした。しかし保守的な人々は、この計画は辛い思い出を蘇らせるものだとしました。この決定は、遺族の怒りを招きました。東京大空襲・戦災資料センターの早乙女館長は、空襲当時、12歳でした。



早乙女館長は、「日本政府は、戦争の恐ろしさを人々に伝える勇気を持っていない」としています。早乙女館長は、自身の資金や民間募金によってこの施設を設立しました。
年々亡くなっていく東京大空襲の経験者たちが、先週、その記憶がきえてしまわないようにと会合を開きました。早乙女氏は、彼らの運動が実を結ばないのは分かっているが、数十年が経った今も、数十万人の死を数として耳にしたくはないとしています。彼は、「彼らは皆、生きていた。空襲が行われるほんの数時間前まで、彼らは皆、家族と団欒していたのだ」と語っています。











(投稿者より)



ドイチェヴェレ(英語)・BBC・イランラジオ日本語の各サイトに掲載された記事です。翻訳には間違いがあるかも知れません。ご容赦下さい。



「阿修羅♪」に投稿するようになって5年になりますが、東京大空襲をこうした欧州などのメディアが取り上げたのは今年が初めてのように思えます。



その要因ですが、第2次大戦終結70年を今年迎えることや東京大空襲そのものの残虐性よりも、空襲を行った米国の軍事力・経済力・指導力などが低下しているにもかかわらず、いまなおウクライナや中東でやりたい放題をしている現状に世界の不満が強まっている、というのが根底にあるように思えます。



私の生家には防空壕がありました。壕の入口には蓋がされ、さらにそれを封じ込めるように上から温室が作られていました。私が中に入ったことはありませんでしたが、幼心に何か怖い印象があったのを覚えています。家は比較的大きな港町にあり、その街では激しい空襲があったと聞いています。



8月には広島と長崎の記事が出ます。オバマ氏が2009年の訪日の際に広島で原爆投下を謝罪したいという意向だったのを外務官僚が止めた事実は少しずつ知られるようになってきましたが、70年目の原爆の日を世界や日本はどう伝えるでしょうか。



末筆ながら、東京大空襲の犠牲となられた皆様をはじめ、310万の戦没者の皆様のご冥福をお祈りいたします。