日本、大災害の刻印を受けた国(RFI):阿修羅♪

日本、大災害の刻印を受けた国(RFI):阿修羅♪

http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/113.html









(Le Japon, terre empreinte de catastrophes : RFI)

http://www.rfi.fr/asie-pacifique/20140928-volcan-seisme-japon-terre-empreinte-catastrophes/





日本自然の大災害





発表 2014年9月28日・更新2014年9月28日19:25





日本、大災害の刻印を受けた国





記者 ロマーン・ミェルカレック





画家・北斎が19世紀に製作した「神奈川沖浪裏」に描かれた、自然を目の当たりにした人間。
Hokusai






9月27日土曜日、日本は再び火山の噴火に襲われた。地震・火山・台風・暴風雨などにより、この列島は大地に印が刻まれており、人々も身体に傷を負っている。この特別な地理的状況は文化や住民に影響を与えずにおかない。





日本では大災害、つまり、自然の猛威との関係が人間の諸活動・芸術・文化の原動力の1つとなっている。このメカニズムを完璧に描写したのが、1833年に完成した画家・北斎の主要な作品である有名な版画「神奈川沖浪裏」だ。作品では、海の怒りを目の当たりにした人々は縮こまって描かれている。



日本は全く独特な地理的条件によって印づけられている。この列島は4枚の地質プレートの間に位置しており、この絶え間ない運動のために数多くの地震が引き起こされる。毎年、強弱さまざまな数千回の振動が記録されている。この最も顕著なものが1923年関東地震(死者100,000人)、神戸地震(死者6,400人)、そして、福島の大事故の元となった東北地震(死者20,000人)だ。



また、この状況のために日本は火山国となっている。雲仙岳や、土曜日の噴火で数十人が命を落とした御岳など、108の火山で危険な状況を示し続けている。富士山もそれ自身は非常に強い圧力がかかった火山だ。「富士山を目覚めさせるような『大地震』を経験することを、日本人は常に怖れている。付近には原発がいくつもあるので、その時は国全体が破壊されるかもしれない」と、知日家のジャン−フランソワ・サブレ氏は説明する。





この環境を怖れているが…



日本人は地震・噴火・津波の絶え間ない脅威と共に生きることを習得しているので、今日ではこの種の大災害に最善の対応をする能力が備わっている。特に、この種の惨劇を再び経験するという恐怖が現実に存在する中で彼らは生活している。



「日本の歴史のあらゆる時に自然との戦いが存在する」と、ジャン−フランソワ・サブレ氏は指摘する。「年に2度の台風シーズン、地震、火山、さらには、朝鮮半島に面した地域では多量の雪が降り、そこは世界最大の豪雪地帯となっている。」「自然が日本で怒り声を上げれば、時に死者は数百を数える。そうしたものと人々は共存している。」



この現実が文化の中に感じ取られる。北斎の版画のように、あらゆる文学や漫画にこうした大惨事への切迫した危機感が刻み込まれている。小松左京が1973年に著した高名な未来小説『日本沈没』には、世界中のメディアが無力感を以て見つめる中、震動と津波の連鎖のために日本全体が破壊されていく様子が記されている。また、あの有名な怪獣映画作品『ゴジラ』を取り上げても良い。怪獣映画は20世紀後半に非常に流行したジャンルだったが、大海と歴史の底から逃げてきたこうした生き物たちにより日本の大都市が破壊される様子が描かれていた。





…自然に敬意を払う



日本文化では、物事の更新が終わりなく続くことが称賛される。このイメージを完璧に具象化したのが桜というシンボルだ。桜は毎年、白みがかった小さな花を咲かせて人々を楽しませるが、花は数日間しか保たない。この時間感覚は日本の古典的な詩である俳句にも見い出される。俳句の非常に短い作品にはこうしたつかの間の光景が、更新を止めることのない季節のリズムとともに織り込まれなければならない。



列島の地理的条件はたびたび苦労と悲嘆の源となるが、それでも、奇跡の道具になることもある。日本の歴史で最も良く知られることの1つが「神風」、つまり、13世紀にモンゴルの侵略者フビライ汗の艦隊を転覆させた台風だ。



これは日本文化で度々取り上げられるテーマの1つで、この寓意が今日もなお映画に度々取り上げられる。例えば、宮崎駿氏の『もののけ姫』では、人々や神々の手により荒廃した世界が灰の中から若々しい自然の姿で生まれ変わる様子が見られる。日本人のあらゆる精神はこうした諸事象に印づけられている。日常の中に遍在する自然に敬意を払うよう、仏教や神道は教えを説く。自然は恩恵も苦痛も与え、どちらを与えるかの予測は不可能だ。



ジャン−フランソワ・サブレ氏は、日本人にとって「並はずれた苦痛」の1つとは何か記している。この苦痛には何としてでも妥協する必要がある。それは「日本人には交換用の国がないこと」だと、この専門家は結論づける。だから日本人は、どのような犠牲を払っても今という瞬間を力強く生きようという、瞬間の哲学にしがみつきながら耐えようと自分たちに言い聞かせる。彼らはこの同じ表現を根気よく繰り返す。「我慢する。」耐えなければならないのだ。











(投稿者より)



RFIサイトに掲載された記事です。誤訳があるかも知れません。ご容赦下さい。