湾岸戦争後の日本の安全保障論議に関する一考察 −小沢一郎・自由党党首の安全保障論を巡って−:阿修羅♪

湾岸戦争後の日本の安全保障論議に関する一考察 −小沢一郎自由党党首の安全保障論を巡って−:阿修羅♪


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湾岸戦争後の日本の安全保障論議に関する一考察

小沢一郎自由党党首の安全保障論を巡って−


Japanese Security Debate after the Gulf Crisis

  • A Study of Security Policy of Ichiro Ozawa-


阪口 規純*

Kiyoshi SAKAGUCHI*

abstract

Ichiro Ozawa, chairman of the Liberal Party, has insisted that Japan should take a more active role in UN collective security operations. His experience as Secretary General of the Liberal Democratic Party during the Persian Gulf crisis convinced him that Japan would become internationally isolated if it stick to what he called one-country pacifism. This article aims to discuss his international security policy through 1990's.

He has argued that Japan can contribute vigorously to international security through the UN within its existing constitutional framework.This article also tries to analyze the logic of his interpretations of the Japanese Constitution.


キーワード:小沢一郎国際連合、集団安全保障、集団的自衛権憲法第9条



はじめに

湾岸戦争は戦後の日本の国際社会での生き方に再考を迫るものであった。湾岸危機を機に日本の平和主義のあり方を巡って国内論議が活性化するが、その中心にあったのが、湾岸危機を「戦後の黒船」と捉え、自民党幹事長として湾岸多国籍軍への自衛隊の派遣を最も強く主張した小沢一郎であった。その後小沢は、「国際社会における日本の役割に関する特別調査会」 (以下、小沢調査会)答申および著書『日本改造計画』において、自己の安全保障政策を体系化し大きな反響をよぶことになる。その主張は「普通の国」論として、政界再編と絡みつつ政界、言論界、学界、経済界等における改憲論議起爆剤となる。小沢は、湾岸危機から1993年の自民党離党後、新生党新進党を経て今日の自由党に至るまでの間、一貫して国連の集団安全保障への日本の参加の必要性を主張し続けてきた。昨年末の白日連立政権の政策合意において国連軍への参加問題が大きな争点となったことは記憶に新しい。

小沢の政治論の核心は憲法論と密接に結びついた安全保障政策にある。しかしながら、その影響力の大きさにも拘らず、小沢に関する膨大な量の報道、論評に比し、同氏の安全保障政策を正面から体系的に分析した学問的研究は極めて少ない1)。

そこで本稿は、小沢の安全保障論をその基盤にある憲法解釈に焦点をあて分析を試みるものである2)。特に湾岸危機から今日の自白連立政権に至る過程における小沢の議論の変化の側面に注目しつつ、小沢の安全保障論の特徴と問題点を明らかにしたい。


I. 小沢見解の変遷

小沢の安全保障論の中核は国連の集団安全保障参加論といってよい3)。本稿は以下、国連の集団安全保障の発現形態である多国籍軍および国連憲章上の正規の国連軍(いわゆる43条国連軍)への日本の参加問題を主たる検討の対象とするが4)、併せて朝鮮半島有事、日米ガイドライン問題の文脈において我が国安全保障政策上、最重要課題といえる集団的自衛権についても、小沢の見解を分析することにする。まず小沢の90年代の議論の推移を跡付ける。

(1) 43条国連軍、多国籍軍への参加論

1992年6月に発表された小沢調査会の答申案は、要旨以下3点を提言した5)。

第1に、日本国憲法は前文で積極的・能動的平和主義の理念を示しており、国際協調の下で行なわれる国際平和の維持・回復のための実力行使は否定されない。第2に、 「国際的安全保障」の概念に従い、国連憲章第43条に基づく国連軍に参加することは、憲法第9条の禁止する我が国の「国際紛争解決手段としての戦争・武力行使」には該当せず、憲法第9条に抵触しない。第3に、多国籍軍については、少なくとも国連の権威の下にあり、国際的な合意に基づく多国籍軍であれば、さしあたり資金面、物資面での支援を行なうと共に、実力行使を伴わない医療・輸送・環境保全等の人的協力を進める。

ここで示された43条国連軍への日本の参加に関する見解は以後、小沢の一貫した考えとして、同氏の集団安全保障論の基本として位置づけられる。

これに対し、多国籍軍への参加については、 1991年から93年にかけての小沢調査会の段階では、必ずしも確定的な結論は得られなかった。 1992年6月の答申案の段階では武力行使を伴わない後方支援を最低線とし、武力行使を伴うものはケース・バイ・ケースで判断すべき、という見解であったが、その後、同調査会では、朝鮮国連軍型の多国籍軍は、「米軍司令官を国連軍の司令官とし、国連軍の旗の使用も認められている」とし、それへの参加は可能との見解で一致した旨、報道される6)。

しかしながら1993年2月の最終答申では、多国籍軍は「国連の権威の下にあり、国際的な合意に基づく実力行使であるとしても、それらの行動が参加各国の国家としての意志から完全に離れた、国連としての意志に基づくものとなっているかどうかは議論が残りうる-。従って、それらへの協力は当面、資金面・物資面での支援や、実力行使を目的としない医療・輸送・環境保全などの人的協力にとどめるべきであり、それを越えた人的協力は差し控えるべき」とされた7)。この多国籍軍への協力は武力行使を伴わない後方支援にとどめるべき、との見解は、小沢自らの判断によるものであったとされる。しかしながら、この文言は、政策判断を示してはいるものの、理論的つまり憲法解釈の次元では、巧妙に結論が留保されている点に注意を要する。小沢は湾岸戦争終結後の1991年7月、インタビューの中で「湾岸戦争での多国籍軍のような軍事行動にも論理的には参加はありうべし、ということになるか」との問いに対し、「『ありうべし』ということではない。国連に加入しているのだから当然のこと」だと言い切っている8)。小沢調査会最終答申で示された見解の背後には、小沢のこの考え方があるものと見てよい。最終答申で慎重な見解を表明したのは、多国籍軍参加を無条件に容認すると国民に対する国連協力の原理・原則の説明が不明瞭になるという論理上の問題と、当時、 PKO協力法の審議が最終の微妙な段階にあったことから野党の不要な反発を招きたくないという自民党としての政治的考慮があったからだと思われる。

以上のように、小沢は同調査会答申では、多国籍軍への協力は後方支援までとの政策判断を示すのであるが、新生党期以降は、武力行使を伴う多国籍軍であっても積極的に参加すべきとの見解を強く主張するようになる。

その契機となったのは1994年春の北朝鮮の核開発疑惑を巡る朝鮮半島危機であったものと思われる。当時、国連あるいは日・米・韓による独自の経済制裁発動の可能性が高まったことから新生党公明党民社党、さきがけ、社会党から成る連立与党の政策協議において小沢は、新生党幹事長として安全保障問題について次の3点を政策合意原案として提示する9)。

日本国憲法は、国連による安全保障(集団的措置)を理念としていることを認識し、世界の平和と我が国安全保障を図るため、日米安全保障条約を維持しつつ、国連の平和活動に積極的に参加する。 ②北朝鮮の核問題への対応は国連の方針に従う。 ③憲法の下で緊急の事態に備えるとともに、日・米、日・韓で緊密に連携、協調する。

小沢は①で国連の集団安全保障の概念を盛り込むことによって、国連による経済制裁やそれに伴う海上阻止行動が実施された場合、更には国連決議に基づく多国籍軍ができた場合に、日本が従来の憲法解釈の弾力化を図れる様、布石を打とうとしたものと思われる。その後、小沢はこの①の考えを引き継ぎ「日本国憲法の理念に基づき、国際協請(国連による集団安全保障を含む)によって日本の平和を守る」ことを基本政策に掲げ、 1995年12月、新進党党首に就任する。党首としての小沢は、多国籍軍参加の合憲性と必要性を強く主張するが、党内の旧公明党グループの反対から、新進党の基本政策としては「侵略に対する平和回復活動等の参加には、その対応、手続きなどについて、事前に国会決議等により国民の意志を問うことを安全保障基本法に定める」との文言に落着き、条件付き多国籍軍参加容認論へとトーンダウンする。

新進党解体に伴い1998年1月、小沢は自由党を結成する。この時、小沢の安全保障論が、そのまま党の基本政策として打ち出される。自由党は、「わが国は、日本国憲法および国際連合憲章に規定される国際協調主義の理念に基づき、国際連合の総会または安全保障理事会において国際連合平和活動に関する決議が行われた場合、これを尊重し当該活動に積極的に参加する」ことを安全保障3原則の一つに掲げ、今日に至るのである。

(2)集団的自衛権

集団的自衛権に関する小沢の見解は一貫していない。小沢の集団的自衛権観は、「集団的自衛権がダメというのは、要するに自国の自衛という名の下に特定の国と結び、そこに日本政府だけの判断で軍隊を派遣したりしてはいけませんよ、ということなんだ。ところが、今の政府の解釈は、これと国際連合の行動を一緒くたにしているわけだ」10)との小沢調査会発足当時の考え方が基本となっている。後に詳しく述べるように、小沢の憲法解釈の基本は、憲法が否定しているのは日本の意志に基づく武力行使であり、それゆえ国連の意志に基づく国連の集団安全保障の行動への日本の参加は憲法の禁止するところではない、という解釈にある。この解釈に立つ限り、集団的自衛権とは、日本国の意志に基づき、日本と密接な関係にある国が武力攻撃を受けた場合にこれを援助する権利であることから、論理上、集団的自衛権の行使は憲法上、容認されないことになる。集団的自衛権の行使は憲法上認められないとする小沢の見解は前述の1994年の朝鮮半島危機の際、小沢を悩ませたものと思われる。羽田連立政権下の神田防衛庁長官、柿沢外相から集団的自衛権憲法解釈見直し発言が相次いだことからも窺われる様に、政権内部では、北朝鮮制裁、朝鮮半島有事に備え、集団的自衛権の解釈の見直しが大きな課題であったことが想像される。小沢の強調する集団安全保障概念では国連の決議が得られない場合の日本の対応が確保されないことになるからである。しかしながら筆者の調べた限りでは、小沢はこの時期、集団的自衛権の見直しを求める公的な発言はしていない。

1994年6月、カーター訪朝により朝鮮半島危機は沈静化する1995年12月、小沢は羽田副党首を破り、新進党党首に就く。その際、小沢は「集団的自衛権の行使は9条に抵触する可能性があると解釈するので難しい。安全保障基本法を作っても認める訳にはいかない」と述べた上で、 「集団的自衛権ということになると、日韓が条約を結んで北朝鮮が攻めてきたら条約に基づいて日本の指揮の下ですぐに行ける訳だが、それは国権の発動に抵触する恐れがある。朝鮮半島有事の際は、国連が国連平和活動の対象にしたら参加すればいい」とし11)朝鮮半島有事において自衛隊の参加が許されるには国連の枠組み内に限り、国連の決議がない場合の日、米、韓の共同行動は、集団的自衛権の行使にあたり、許されないとの見解を明らかにした。

しかしながら以上の見解は、そのすぐ後、重要な転換をみることになる1996年2月、新進党安全保障基本法プロジェクトチームの東祥三座長が寮法9条は国連加盟国の武力行使を禁じた国連憲章第2条と同義であり、国連憲章が国連の集団安全保障措置を補充するため、各国に個別的、集団的自衛権を認めている以上、憲法上も集団的自衛権の行使が認められると解釈できる、との私案を発表した12)。小沢は、この東私案の論理に同調する考えを示すと共に、「日本は国連に加盟するとき、あらゆる手段をもって国連に協力すると表明した。その国連は集団的自衛権を認めている。これまで私は憲法上は制約されるのではないかと考えていたが、論理的には認められると思う」と述べ13)、小沢調査会以降、一貫して否定的見解を示していた集団的自衛権憲法解釈を転換する。その後、新進党所属の議貞の中で、集団的自衛権憲法解釈について見解が割れる中14)、小沢は同年6月、集団的自衛権の行使は憲法上、認められないとする従来の政府解釈を批判、「従来の政府解釈が間違っている訳で、戦後ずっと日本が都合よく楽をするために、そう解釈してきた」、「政府解釈なんて内閣が変われば変わる」と述べ、解釈を改めることで集団的自衛権の行使を容認すべきとの考えを明らかにした15)。但し、ここで注意すべき点として、小沢は、日米安保条約の枠組みではなく国連の枠組みの中での集団的自衛権の行使が認められるとの独自の見解を提示する。集団的自衛権行使容認論朝鮮半島有事あるいは台湾海峡有事への日米協力の促進の観点から日米の枠組みの中で捉えられるのが一般的であるが、小沢は、国連決議に基づく多国籍軍への参加を容認するために国連の枠組みにおいて、集団的自衛権の行使を肯定するのである。それまで小沢は、多国籍軍への参加は、集団安全保障の概念で捉えていたにもかかわらず、一転して集団的自衛権の概念で捉えようとする。小沢にとって、集団安全保障、集団的自衛権いずれの概念に立脚するとしても、実現を目指す政策課題は多国籍軍への参卸である点で変わりはない。では、何故、小沢は「国連下の集団的自衛権容認論」に立場を変えたのか。恐らく、限定的とはいえ集団的自衛権容認論を打ち出すことによって、自民党社会党、さきがけの三党連立政権の分裂を誘い、ひいては自民党との保保連合の布石としたいという、国内政治上の理由からではないかと推測される。併せて、多国籍軍参加の憲法解釈上の説明が、それまでの憲法前文に基づく論理構成よりも、集団的自衛権を用いた方が、説得力をもつと判断されたのかもしれない。

小沢のこの集団的自衛権容認論は前述した多国籍軍参加論と共に、新進党の基本政策をとりまとめる過程で、党内の激しい議論を呼び、その結果、党の見解としては受け入れられず、1997年1月の新進党党首としての所信表明において、「国民の意志を踏まえて、集団的自衛権の行使はこれを認めない」と改められる16) 。

その後の小沢自身の集団的自衛権観は、必ずしも明確な形では捷示されない。昨年8月11日、小沢は衆議院本会議で自由党党首として、 「わが国が武力による急迫不正の侵害を受けときに限り武力による反撃を行うこと」を安全保障3原則の一つに位置づけるべきだと主張しており17)この見解を普通に受け取れば、集団的自衛権の行使は少なくとも政策的には否定しているものと考えられる。小沢の集団的自衛権憲法解釈については、 1997年11月の時点では「いかにアメリカの要請があっても、武力による自衛権の行使は、わが国が直接攻撃にさらされた場合にしか許されないというのが、現行憲法の定めるところだと思う」18)と述べ否定的見解を示しているが、近年では「憲法第9条については自衛権はあるが、その行使については個別的であれ集団的であれ制限されていると考えている」19)と述べており、 「制限的」であれば集団的自衛権の行使は憲法解釈上、必ずしも否定されるものではない、とのニュアンスを残すようになっている20)


2.小沢見解の論理

(1)憲法解釈

本節では、以上の小沢の集団安全保障参加論がいかなる憲法解釈に基づき展開されてきたのかを明らかにする。

国連の集団安全保障への参加を憲法と矛盾せず説明するための小沢の論理は憲法前文と第9条の規定の2つの次元から構成される。小沢調査会答申案は合憲化の論理を次の通り述べている。

憲法全体の立法の趣旨を示すものは、憲法の前文である。そこでは『われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位をしめたいと思う』との決意が述べられ、また、『われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従うことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる』と表明されている。これらは、国際社会と協調し、世界の平和秩序維持と世界経済の繁栄のために努力する、という精神を示すものである。憲法第9条第1項において『正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求』すると宣言しているのも、この憲法前文の精神に沿ったものである。」21)

このことから小沢は憲法の前文は「積極的・能動的平和主義」を示すものであり、国連の集団安全保障への自衛隊の参加は、この前文の求めているところだと主張する。

以上の前文解釈に立脚した上で、小沢は次に第9条に次のような解釈を与える。

小沢は、第9条1項後段の「国権の発動たる戦争と武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」という規定の由来を日本の過去の反省の観点から次の如く解釈する。

「日本は、戦前、開国以来続いていた米英協調関係を断ち切ってわが道を行き、軍隊を海外に派遣し、そして自分たちの考えを武力をもって理解させようとした。それは、憲法の禁ずる『国権の発動たる武力の行使』であり失敗した。だからやはり、自分一人で勝手な正義を振りかざし、力で相手を説得しようとする行為はいけません、私たちはもう二度と歴史の過ちは繰り返しませんと表明したのが9条1項の後段です。つまり、専守防衛以外、国際関係で軍隊を海外に出しはしませんと誓ったのが9条です。」22)

よって、小沢によれば、「憲法で否定された『国権の発動たる武力の行使』と世界の平和を達成するため、秩序を乱すものに対して国連が中心となって行なう制裁行為を分けて考えなければならない」23)との見解が導かれるのである。

以上の論理は、 1992年2月の小沢調査会答申案の段階で示されたものであるが、 1993年2月に発表された最終答申では、更に、「国連の武力行使に対し日本が参加したとしても、それは国連の行動の一環であってもはや日本国の主権発動の性格を有しないものであり、憲法9条の放棄した戦争・武力行使とはまったく異質のものと考えられる」24)との詳しい論理が付加される。この点は『日本改造計画』で国連の指揮下で行動するための国連待機軍の保有を提唱する中で、国連待機軍の活動は国連の指揮で行なわれるのであるから憲法第9条が禁止する「国権の発動」にあたらない、との見解として、一層明確にされる25)このように、小沢の集団安全保障合憲化の論理は、①憲法前文イコール積極的平和主義②第9条1項イコール日本独自の判断に基づく武力行使の禁止③国連指揮下の行動イコール日本の非主権行為(主権切離し論)の3段重ねの論理で構成されていることが分かる。

この小沢の集団安全保障参加合憲論は国連協力に関する戦後の学説と政府解釈を踏まえたものとして一定の説得力を有するものと評価できる。以下にこの点について分析を試みたい。

(2)前文解釈と横田喜三郎

憲法前文を積極的平和主義と捉える小沢の解釈は従来の通説と大きく異なっている。栗原祐幸自民党憲法調査会長が通説を踏まえ、小沢調査会の前文解釈を「憲法前文の『国際社会において名誉ある地位を占めたい』とか『他国を無視してはならない』という部分をつまみ食いして、憲法の精神を『積極的平和主義』だと断ずるのは非常な独断だ」と非難しているのは26)、この点を象徴的に示すものである。

しかし、小沢の前文解釈は前例のない全く新奇なものではない。管見の限りでは、 GHQ占領下の1950年に国際法学者横田喜三郎東京大学教授(当時)が著書『朝鮮問題と日本の将来』において、日本国憲法の平和主義を積極的平和主義であると説いたが、恐らく初めてだと思われる。当時、横田は、独立回復後の日本の安全は国連の安全保障に頼るべきである、との論陣を張っており、その文脈から日本の国連協力の必要性を主張していた。横田はいう。

憲法の前文に、日本国民は、 『平和を維持…しようと努めている国際社会において、名誉ある地位をしめたいとおもう』と規定されている。これは非常に意味の深い規定である。…実際において、平和が破壊され、侵略が行なわれて、多くの国がこれを制止、平和を維持しようとして、あるいは軍隊を派遣し、あるいは物資を提供しているときに、つまり、諸国が経済的損失をかえりみず、国民の血まで流して努力しているときに、その努力に協力することを拒絶し、ただ口の先だけで平和をとなえている国があるとしたら、どうして諸国から尊敬され、名誉ある地位を与えられるであろうか。むしろ、利己的な国民として非難され、勇気のない国民として軽べつされるだけである。…この憲法は、平和を確保するための協力をさけようとしているものではない。世界の国から軽べつされるような平和主義を採用しているものではない。…平和を確保するために、積極的に努力しようという平和主義を採用したものである。つまり、積極的な平和主義、たくましい平和主義である。日本の憲法の採用した平和主義の真の精神は、そこにある。この点から見れば、戦争を防止するために、国際連合の軍事行動に協力することは、まさに憲法の平和主義に合するものといわなくてはならない。その精神を生かすものである。」27)

以上のように、横田は前文の「平和を維持…しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」の部分を根拠として、国連の集団安全保障措置への日本の協力を憲法の平和主義と合致するものと意義づけているのである。小沢の見解は、前述のように更に、前文の「いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」の部分と第9条1項の「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の部分をも挙げ、理由づけを補強していることが理解される。

第9条1項の解釈においても、横田の説と小沢の説は類似する。横田は、第9条が放棄した戦争とは「個別の国家の意志に基づいて、その利益のために行なわれるもので、いわば、私の戦いである」とし、国連の集団安全保障の行動は「一国または数国だけの利益や目的のためではなく、世界全体の目的や利益のため」にとる「公的な国際警察行為」であり、その意味で、憲法が放棄した戦争と「性質は実質的に全く異なっている」ものだとみなす。この横田の第9条の解釈は、第9条1項を「国際紛争を解決するため」の限定句の解釈を鍵に1項を不戦条約の延長として把握する、つまり、自衛のための戦争と制裁のための戦争は第9条1項で放棄される戦争対象から除外されるという国際法学の一般的解釈に立脚したものといえる。これに対し小沢の第9条解釈は、日本の意志に基づく武力行使と国連の意志に基づく武力行使を峻別する点で同じ理解に立ちつつ、日本の過去の戦争に対する反省という日本国有の意味を強調する点で独自性を有している。

但し、横田説は小沢説と、次の点で本質的に異なっている点に留意しておかなくてはならない。横田は、後年、その主張を転換することになるのであるが、前述の憲法解釈を展開した当時は、未だ米占領下にあり憲法第9条を一切の軍備の保持を禁ずるものと厳格に解していたことから、日本の国連協力は具体的には、兵力による協力であってはならず、軍隊、兵器、弾薬、食料等の軍備晶の輸送、経済的物資の供給、国連軍への基地提供を行なうべきだ、というものであった28)。小沢説は学説的にみれば横田説の論理を基盤にしているといえるが、兵力提供の是非という国連協力の核心部分において根本的差異がみられるのである。

更にもう一つ重要な点は、小沢の集団安全保障合憲論の3番目の論拠である「国連指揮下の行動イコール日本の非主権行為論」の原型は、 1960年代の林修内閣法制局長官の見解にあるという点である。林長官は国連軍参加に関する政府解釈を初めて体系的に明らかにする。岸政権から佐藤政権にかけての政府解釈については別稿で詳細に論じたので要点のみ述べると、林長官は岸政権期以降、微妙な言い回しながら、注意深く憲法第9条が禁止しているのは「主権国家として」の武力の行使と威嚇であり、逆にいえば主権国家と離れた別の主体の武力行使、すなわち国連指揮下の武力行使憲法第9条が必ずしも否認するところではないとの解釈を示していたのである29)。この見解は、その後、佐藤政権期の内閣法制局長官高辻正己にも基本的には受け継がれるのであるが、 1966年の「国連協力法案」報道を機に、野党の強い反発を招き国会で表明なされなくなっていく。 1990年、湾岸危機に直面した小沢は、この1960年代の林法制局長官の憲法解釈を復活させたといってよい。


3.小沢見解の評価

(1) 集団安全保障参加合憲論の論理構成の変化

以上でみた集団安全保障合憲論の論理は、小沢調査会から今日の自白連立政権に至る過程において重点の置き方が変化してきている。紙幅の制約により簡潔に記せば、小沢調査会および『日本改造計画』で体系的に示された「前文プラス9条規定」の二段構えの論理構成が、新進党期から自由党期になると、 9条規定論が後退し前文立脚論のみが前面に出るようになってくる。日本国憲法は前文で示されるところの国際協調主義を理念としており、それは国連憲章の理念とも合致しているがゆえに、国連の平和活動への日本の参加は憲法上可能である、との論理づけが定着するのである。しかし、果して憲法前文のみに立脚し、国連の集団安全保障への日本の参加が憲法と矛盾しないと解釈しうるのであろうか。

前述したとおり、栗原祐幸自民党憲法調査会長の、小沢の前文解釈は「憲法前文のつまみ食い」であるとの指摘は当たっている。小沢が言及しない前文の第1項、 「日本国民は…政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し…この憲法を確定する」および第2項第1段の「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようとした」、同第3項の「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげて国連の崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」の部分に、前文の趣旨、すなわち日本の過去の戦争に対する痛切な反省と恒久平和への強い希望が表現されている、と解することが自然である。しかしながら、他方、小沢が言及している第2項第2段、第3項第1段が、積極的な平和主義の理念を示していると解することは約半世紀前に横田喜三郎が力説したように、文理解釈上、不可能とはいえない。

しかし、憲法前文を積極的平和主義を示したものと解釈しえたとしても、前文が第9条の規定自体の解釈を制約するとみることはできない。小沢は「前文というものを、逐条よりも劣るようにいっている曲学阿世の学者がいますが、とんでもない話です。前文は逐条のすべてにかかる理念なんです」30)と述べているが、前文の内容は抽象的な原理、理念であり、その具体的内容は本文条項によって定められるものであって、前文はあくまでも本文解釈の指針以上のものではない。ゆえに、前文にのみ立脚することで、国連の集団安全保障への参加を憲法に違反しないものと解釈することには無理があるといわざるを得ない。第9条の規定と整合しうる解釈が示されなくてはならない。

この点を議論の前提とした上で、以下に①43条国連軍への参加②多国籍軍への参加③集団的自衛権、の各々に関する小沢見解の憲法解釈上の正当性を検討する。

(2) 43条国連軍、多国籍軍への参加

小沢の集団安全保障参加論では43条国連軍への日本の参加は憲法に違反しない、とされる。正規の43条国連軍への参加に関する現在の政府解釈は、「国連軍へ我が国がどのように関与するか、その仕方あるいは参加の態様といったものについては現在まだ研究中であり結果を明確にいうわけにはいかない-その任務が我が国を防衛するものとは言えない、そこまでは言い切れない国連軍憲章上の国連軍、こういうものに自衛隊を参加させることについては憲法上、問題が残るのではなかろうか」 (1990年10月19日衆議院予算委員会工藤法制局長官答弁)31)と違憲に傾きつつも最終判断を留保している状況にある。従来の政府解釈であるところの「必要最小限度の自衛権論」に立脚すれば、憲法との整合性を図ることは難しいが、これまで述べてきた「主権切離し論」の考え方に立てば、 1960年代の林法制局長官答弁の線に則り、第9条との整合性をとる余地があるものと思われる。

多国籍軍への日本の参加に関しては、従来の政府解釈に立つ限り、明白に憲法に反する。湾岸多国籍軍については、 「湾岸危機におけるいわゆる多国籍軍、これは(1980年答弁書が)指摘している『目的、任務が武力行使を伴うもの』などという域にとどまらずに、武力行使自体を任務、目的とするものであるというふうに評価できようかと思う。従って、このようなものに、自衛隊が参加することは憲法上許されない」 (1992年12月8日参議院内閣委員会大森政輔法制局長官答弁32)と確定的な政府解釈が示されている。朝鮮国連軍についても、既に1954年、当時の下田武三外務省条約局長が、 ①朝鮮における国連の行動は国際法からみると警察行動ではなく戦争とみるべきであり、交戦権をフルに行使する敵対行動が行なわれていると見るのが正しい②従って日本は憲法が交戦権を禁止している以上、これに参加することは憲法上、不可能、と答弁している33)。これに対して、これまで見てきた様に、小沢解釈によれば多国籍軍への日本の参加は憲法上可能だとされる。果して、それは十分、説得的な解釈たりうるであろうか。それには前述した通り、前文のみに立脚した説明では不十分であり、第9条との整合性ある解釈が示されなくてはならない。そのためには、多国籍軍の行動は国連の意志に基づく国連の行動であって、日本の主権国家としての行動ではない、ことが明らかにされなくてはならない。この間題を考える上で重要な点は、多国籍軍は国連の指揮下にはないという点で、正規国連軍やPKOと決定的に相達していることを指摘しなくてなならない。朝鮮国連軍は米国の統一指揮権の下にあり、湾岸多国籍軍は、各々、構成国が自国の指揮権を有しており、いずれも国連の指揮権は存在していない。多国籍軍が国連と関連づけられるのは、国連安全保障理事会の決議に基づく行動であるからである。小沢は、この点を重視し、宮沢元首相との対談で「多国籍軍は国権の発動となるのではないか」との宮沢の意見に対し、 「多国籍軍の形をとってもそれは、国連の決議に基づく平和活動だから、日本が自分自身の判断で、即ち国権の発動として行なう行為とは全く別の範噂の行為だ」と述べている34)。しかしながら、湾岸多国籍軍の場合、多国籍軍構成国に対し、武力行使の権限をオーソライズした安保理決議678号は、武力行使の開始の時期と定期報告を定めただけであって、武力行使後の多国籍軍の行動は事実上、白紙委任であった。従って多国籍軍の行動は安保理の指揮、統制の下にない以上、限定的意味においてしか国連の集団安全保障行動とは評価できない。湾岸多国籍軍の行動にたいする法的評価を巡っては、国際法学において学説は一致していない35)。もちろん、憲章第43条の特別協定が不在の状況にあって、第39条の勧告あるいは「黙示の権源」説によって、安保理が加盟国に武力行使オーソライズすることは、国連国連憲章に反するものではないが、多国籍軍の行動が国連の集団安全保障の措置と明確に位置づけられるためには安保理の十分なコントロールが行なわれることが不可欠だといえる。よって以上のことから、多国籍軍の行動は参加国の主権国家の行動ではなく国連の行動だということは出来ず、小沢説によっても、憲法第9条と整合性ある解釈を示すことは不可能であることが理解される。

(3)集団的自衛権

これまで見てきた通り、小沢の集団的自衛権観は、憲法解釈上、集団的自衛権の行使は難しいとの初期の認識が、国連決議を受けたものに限り集団的自衛権の行使は容認されるとの条件付き容認論を経て、その後否定論に傾きつつも必ずしも明確な見解が示されず唆昧さを残す形で推移する。集団的自衛権に関する政府解釈は、別稿で詳細に論じたように、国連加盟前の1954年以降、説明の仕方は変化するものの、一貫してその行使は憲法解釈上、許されないとの確定的な解釈が示されてきている36)。小沢の前文立脚論に立てば、国連憲章を媒介に、集団的自衛権行使を憲法と整合的に解する余地はあるものと思われるが、前述の通り、小沢の9条解釈の論理に則ったとしても集団的自衛権の行使は日本の主権国家の意志に基づく武力行使であるがゆえに、第9条に抵触することになる。従って、政府解釈によっても、小沢見解によっても、現行憲法の枠内で集団的自衛権の行使を可能と解釈することは不可能だといえよう。

以上、要するに、小沢の憲法解釈においては、 43条国連軍への参加を憲法と整合的に解釈しうる余地はあるが、多国籍軍参加および集団的自衛権行使を憲法と整合的に説明することはできない。

(4)憲法改正試案

このたび(1999年8月)、小沢は「日本国憲法改正試案」を発表したが37)、以上の小沢の憲法解釈の文脈から、この改正案を位置付けると次のことがいえる。

小沢はこれまで国連の平和活動への参加は憲法解釈上、可能であるとしつつも、憲法解釈上の疑義をなくし、国民の理解を明確にするためには本来、憲法改正が望ましいと主張してきており、今回の改正案公表もその延長線上にあるといえる。改正試案において、小沢は国連の平和活動への参加については、「憲法の目指す国際協調主義の理念」を「より明確に」するために次の条項を第9条の次に新たに設けるべきと提唱する。

「日本国民は、平和に対する脅威、破壊及び侵略行為から、国際の平和と安全の維持、回復のため国際社会の平和活動に率先して参加し、兵力の提供をふくむあらゆる手段を通じ、世界平和のため積極的に貢献しなければならない。」

これまで検討してきた小沢の集団安全保障論との比較において重要な特徴は、条文では平和活動の主体が、国連ではなく「国際社会」となっている点にある。小沢はこの条文の精神は国連憲章第7章と同じものだと解説しているが、憲章第7章が定める集団安全保障措置は、個別国家の判断ではなく国連の集団的な意志決定に基づく武力行使を容認しているのであって、国連決議を媒介としない「国際社会」の平和活動は、国連憲章第51条の自衛権の場合を除き禁止しているのである。改正案の文言を「国際社会の平和活動」とすることによって、多国籍軍参加の合憲性を明確にすると共に、 NATOのユーゴ空爆のような国連安保理決議に基づかない武力行使にも日本の参加が可能となることをも想定しているものと思われる。

第2に改正案は、第9条自体に「前2項の規定は、第三国の武力攻撃に対する日本国の自衛権の行使とそのための戦力の保持を妨げるものでは奪い」との第3項を新たに追加することによって、自衛権行使と自衛のための戦力の保持を明確にしようとしている。ここでは、個別的自衛権の行使のみが容認されているように思われるが、 「自衛権の発動は個別的、集団的を問わず抑制的に考えるべき」だと解説されていることからすると、集団的自衛権の行使的を問わず抑制的に考えるべき」だと解説されていることからすると、集団的自衛権の行使それ自体は解釈上、必ずしも明確には否定され切っていない感が残る。仮にこの第3項が集団的自衛権の行使を容認していないものと解釈したとしても、前述の如く新条項で国連決議のない「国際社会」の「平和活動」への参加が容認されるのであれば、事実上、集団的自衛権の行使が容認される事になる。


おわりに

以上、小沢の安全保障論を憲法解釈の論理に注目しつつ考察し、その特徴と問題点を明らかにしてきた。これまでの検討から国連の集団安全保障への参加に関する小沢の主張は憲法解釈上の難点はあるものの一貫しており、他方、集団的自衛権については、否定的見解から容認論を経て再び否定論へ傾斜する形で変化してきていることが分かった。その過程で憲法解釈の論理が9条解釈論の比重が小さくなると共に前文解釈論が強調され、最近では、解釈論が憲法改正論へとシフトしつつあることが理解される。

この小沢見解がもつ日本の安全保障政策上の意味は次の如くである。まず第1に、 43条国連軍については、現実の国際政治において近い将来、憲章上の正規の国連軍が創設される見込みは小さい。その最大の理由は、各国は自国の軍隊を恒常的に国連の利用に供することを望まず、アド・ホックに対応することを選好するからである38)。各国は、武力行使の程度が強くなる程、自国の軍隊の派遣に関する主権を容易に手渡さないといえる。しかしながら正規の国連軍が創設される見込みが小さいからといって、小沢の提案に全く意義がないわけではない。日本が43条国連軍への参加は可能であることを対外的に示すことは、国際社会の秩序形成に日本も積極的に関わっていくのだという国家の意志を表明する点で政治的、外交的にもつ意味は小さくない。

第2に、これまでの考察から明らかな様に、小沢の中心となる主張は、多国籍軍への参加にある。ガリ前国連事務総長が指摘するように多国籍軍については評価は功罪相半ばするものの39)、憲章第7章に基づく武力行使は、国連の指揮下の国連軍が担う場合よりも国連が加盟くなるものと予想される。しかしながら、朝鮮半島有事以外に日本の多国籍軍参加が日本の国益にとって重大な意味をもつ事態はあまり多くないでのはなかろうか。

朝鮮半島有事に国連決議に基づく多国籍軍が結成された場合、小沢の見解に従えば、自衛隊が全面的に多国籍軍に参加し、朝鮮半島で戦闘行動を行うことが可能となるが、韓国がそこまで日本の行動を受認する可能性は小さく、又、中国の反発を招くことも間違いない。よって万全ではないにしても、今回、制定された周辺事態法の範囲内で対処すべきものと考える。むしろ、昨年12月の自民党自由党の連立協議の際に浮上した、多国籍軍への武力行使を伴わない後方支援の法整備が現実的な安全保障政策上の課題になるものと思われる。

その際、湾岸危機の際に小沢が法制化を強く試みたものの野党、国民世論の強い反発を受け廃案となった国連平和協力法案が再検討されることになろう。但し、朝鮮半島以外の地域で展開される多国籍軍のほとんどは日本の領域から離れるため、戦闘行動と一線を画した後方地域の設定が難しくなるとの問題点をはらむであろう。

第3に集団的自衛権については、国会で憲法調査会が正式に設置されることになったことから、憲法改正の重要な争点となるものと予想される。前述の如く小沢の集団的自衛権観が必ずしも一貫していない点は、政策的にみた場合、朝鮮半島有事を想定しているからだけではなく日米安保の双務化という長期的観点からきているようにも思われる。

小沢の集団安全保障参加論の問題点は、国連協力と日米関係が矛盾するのではないかという点にあった。小沢調査会当時は、米国が積極的な国連協力政策を表明していたが、ソマリア派兵を機に一転して、消極姿勢を強めており40)、それに伴い、日本の国連協力と対米関係のベクトルが必ずしも一致しない傾向が生じてきている。1996年のナイ・レポートは日本の国連重視策を牽制する狙いもあったとの指摘がある41)。もし仮に小沢の主張に沿って、日本が将来、国連協力を積極化させた場合、米国がこれを日本の「米国離れ」と受取り日米関係に負の影響を与える可能性も否定しえない。小沢は日米関係の重要性を常に強調しているが、日本の国連協力への傾斜は対米関係に一定の距離をおこうとするものではない、との意向を米国に対し黙示的に発信しているようにも思われる。小沢は日米安保条約の双務化について「現実の政治にはいろいろな問題がありますから、すぐに双務性のものにしろとは言わない」42)と述べ、政治論として将来の双務化は完全には否定していない。将来、仮に米国が日米安保条約の双務化を求めてきた場合、小沢は、日本と日本人の自立を最重要視する政治思想から、米国との対等化を志向しこの要求を受け入れる可能性がないとはいえない。筆者は、国に授権する多国籍軍型か、あるいはボスニア紛争のようにNATOに委任する場合が多 憲法解釈上はもとより政策の観点からも日本は集団的自衛権の行使に踏み込むべきではないと考える。国連の集団安全保障とは異なり日本の単独の意志により海外での自衛隊武力行使が可能となれば、日本の安全保障政策の最も根本的な政策転換となり、中国、韓国、北朝鮮等の対日警戒観を強め、結果的に日本を巡る東アジアの安全保障環境を不安定化させる危険が強いと考えるからである。

このように小沢の安全保障論は、全体としてみれば集団的自衛権については危険性が潜在するものの、集団安全保障論は、基本的には日本の外交、安全保障政策のとるべき長期的方向性を示すものといえる。

小沢の集団安全保障論は、国際秩序の維持に積極的役割を果たすことが不可避となった日本が、国際政治の構造変化に対応するために、如何に第二次大戦の敗戦の結果、受け入れた日本国憲法をどこまで適応させることが可能なのかを、政治指導者として明らかにしようとした一つの試みである。国際安全保障に果たす国連の意義と可能性を高く評価し、徹底した国連協力を説く点で、小沢の安全保障論は戦後の日本の政治指導者の中で際立った特徴を示している。小沢の見解を国連を過大評価するものだとする批判に対し、冷戦後の国際社会において各国が協調して国連の機能強化を図っていくべきだとする小沢の主張は正しい。但し、日本が参加の対象として検討すべき国連の行動は、日本国憲法の精神から多国籍軍であってはならず、国連の明確な指揮・統制の下にある正統な国際公共価値実現のための行動に厳しく限定されなくてはならない。そのために、日本は安保理の意志決定の民主化を前提に国連の指揮能力の強化を各国に働き掛けると共に、 PKOの緊急展開能力の向上や、人道支援や停戦確保を目的とする小規模の国連常設軍の創設43)、あるいはかつてガリ前国連事務総長が提唱した平和執行部隊構想44)の実現に向け、長期的視点から国民合意を十二分に尊重しつつ国際安全保障政策を具体的な形で構想していくことが次の世紀に求められている。

(1999年8月17日脱稿)

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大阪大学大学院国際公共政策研究科講師


1)数少ない研究として浅井基文『新保守主義』相啓房、 1993年、渡辺治『政治改革と憲法改剖青木書店、 1994年、同「小沢一郎の政審構想」 『法律時報』第66巻6号、 46-56頁。

2)よって本稿は小沢の政治思想、政治行動を考察するものではないO小沢の政治戦略については、大旗秀夫編『政界再編の研究』有斐閣、 1997年、第2章がある。

3)マイク・モチヅキは、湾岸戦争後の日本の安全保障論議を①Normalization ofJapanと②PosトCold War Pacifismに大別し①を更に集団安全保障参加論、集団的自衛権論、独立戦略論、 ②をグローバルシビ1)アンパワー論と「再生平和主義」に区別しており、小沢の主張を集団安全保障参加論と位置づけている。 Mike M.Mochizuki, "Americanand Japanese Strategic Debates: The Need for a New Synthesis," in Mike M.Mochizuki, ed. , Towarda True Alliance, Brookings, 1997, pp.56-68.

4)冷戦後の国連の集団安全保障の現状と問題点については、 Adam Roberts, `The United Nations and InternationalSecurity'Survival, vol.35, no.2, Summer, 1993, pp.3-30. , Brian Urquhart, `The UN and International Se・curity after the Cold War'in Adam Roberts and Benedict Kingsbury eds. , United Nations, Divided World, Clarendom Press, Oxford, 1994, pp.81-103、集団安全保障と集団的自衛権の両概念の法的性格の相違について

5)小沢調査会「答申案『国際社会における日本の役割』」 『文薮春秋』 1992年4月号所収
6) 『朝日新聞』 1991年12月27日。

7)自由民主党国際社会における日本の役割に関する特別調査会「国際社会における日本の役割」『月刊自由民主』1993年3月号所収。

8)小沢一郎自衛隊に平和協力任務を与えよ」 『世界過剰1991年7月16日号、 25-26貢

9) 『朝日新聞』 1994年4月22日。

10)小沢、前掲「自衛隊に平和協力任務を与えよ」、 27頁。

11)『産経新聞』 1995年12月31日。

12) 『朝日新聞』 1996年4月7日。

13) 『朝日新聞』 1996年4月8日。

14)新進党「安全保障政策アンケート集計結果について」 1996年5月20日

15) 『朝日新聞』 1996年6月7日。

16)第140回国会衆議院会議録第2号(平成9年1月22日)、 5頁。

17) 『朝日新聞』 1998年8月12日。

18)小沢一郎田久保忠衛(対談) 「内閣が口ごもる日米ガイドライン『重大なる危機』の真相」 『諸君』 1997年12月号、28頁。

19)小沢一郎「情緒的な護憲論が国を滅ぼす」 (インタビュー) 『文聾春秋』 1999年7月号、 186-187頁。

20)また小沢は近年、ガイドライン法案に関する政府、自民党の立場を「なし崩し的に軍事行動の範囲を拡げていくものだ」と厳しく批判し、歯止めとなる明確な原則を求める立場から、自由党として「周辺事態」の定義の明確化−具体的には「そのまま放置すれば(わが国の平和と安全が)侵されるおそれのある事態」とする修正案-を要求した。この修正案の狙いは、周辺事態を日本が攻撃を受けた「有事」に準ずる事態ととらえて、個別的自衛権の発動として自衛隊の武器使用等の制約を柔軟化する点にあると報道されている。この考えは1996年当時、防衛庁で有力であったとされる「準日本有事」案が下敷きになっているものと想像されるが、この考えは発動要件を緩和し個別的自衛権の債域を拡大することによって、寮法解釈上、集団的自衛権行使の問題を回避する装いをとりつつ、事実上、集団的自衛権の頚城に踏み込もうとするものといえる。

21)前掲「答申案『国際社会における日本の役割』」 139頁。

22)小沢一郎・後藤EEE正晴(インタビュー) 「自由民主党憲法問題」 『諸君』 1992年5月号、 123頁。

23)小沢、前掲「自衛隊に平和協力任務を与えよ」 26頁。
24)自民党、前掲「匡l際社会におけるEl本の役割」 295頁。

25)小沢一郎日本改造計画講談社、 1993年、 134-137頁。

26) 『朝日新聞』 1992年2月21日。栗原祐幸憲法国際貢献読売新聞社調査研究本部編『憲法を考える』読売新聞社、 155-171頁。

27)横田喜三郎『朝鮮問題と日本の将来』劾草書房、 1950年、 214-216頁。

28)横田は国連加盟後の1957年、国連協力に関し「兵力の提供を差控えるのが適当」としつつも、すべての国が国連の軍事的措置を支持していることを象徴するために、政治的効果を重視し、兵力提供に応じるべきだとの見解に転換する。横田書三郎「国際連合と日本」国際法学会編『国際連合の10年』有斐閣、 1957年、338頁。

29)詳しくは拙稿「匡I連の集団安全保障と日本一国連軍参加に関する政府解釈の変遷」 『国際公共政策研究』第3巻第2

29)詳しくは拙稿「匡I連の集団安全保障と日本一国連軍参加に関する政府解釈の変遷」 『国際公共政策研究』第3巻第2 号、 1999年3月、 49-69頁。参照。

30)小沢一郎「米国なくして日本は生きられない」 (インタビュー) 『中央公論』 1998年6月号、 70頁。

31)第119回国会衆議院予算委貞会会議録第1号(平成2年10月19日)、 617頁。

32)第125回国会衆議院内閣委員会会議録第1号(平成4年12月8日) 14頁。

33)第19回国会衆議院外務委員会会議録第5号(昭和29年2月6日) 17頁。

34) 『朝日新聞』 1997年1月21日。

35)湾岸多国籍軍の行動の法的性格について、国連憲章51条の集団的自衛権で説明する説として Oscar Schachter, United Nations Law in the Gulf Conflict', American Journal of lnternational Law, Vol.85, No.3, pp.457-461 , 国連憲章第42条で説明する説として、尾崎重義「湾岸戦争と国連恵章」 『筑波法政』 15号、 1992年、 68-69頁。 51条と42条のミックス又はハーモニーとみる説としてHilaire McCoubrey and Nigel D.White, International Law and Armed Conflict, op.cit pp.159-160. , R.Mullerson and D.J.Scheffer, `Legal Regulation of the Use of Force', in L.F.Damrorsch, G.M.Danilenko and R. Mullerson, Beyond Confronねtion: International Law for the Post-Cold War Era, 1995, p.113、遵法説として、松井芳郎『湾岸戦争国際連合日本評論社、 1993年。

36)詳細は拙稿「集団的自衛権に関する政府解釈の形成と展開」 (上) (下) 『外交時報』第1330号、 1996年7月、第1331号、 1996年9月。

37)小沢一郎日本国憲法改正試案」 『文聾春秋』 1999年9月号、 94-106頁。

38)この点につき、例えばAdam Roberts, Benedict Kingsbury "The UN's Roles in International Security since 1945 in Adam Roberts and Benedict Kingsbury eds. , UnitedNations, DividedWorld, op.cit, P37.

39) Supplement to an AgendaforPeace, Position Paper, A/50/60, s/1995/1, 3 Jan.1995

40)湾岸戦争後の米国の国連政策については、 Mats R.Berdal, `Fateful Encounter; The United States and UN Peacekeeping', Survival, vol.36, no.l, spring 1994, pp.30-50、星野俊也クリントン政権の国連政策」 『国際問題』 1997年2月号、 52-65貢が詳しい。

41) Ryo Oshiba, `Japans UN Policy in the 1990s', Pacifc Focus, spring 1999, pl5

42)小沢、前掲『情緒的な護患論が国を滅ぼす』、 185頁。

43)このような提案として、 The United Nations in its Second Half-Century, A Report of the Independent WorkingGroup on the Future of the United Nations, Ford Foundation, pp.21-23; Towards a Rapid Reaction Capability for trie United Nations, Report of the Government of Canada, September 1995; Our Global Neighborhood, The Commission on Global Governance. Oxford University Press, 1995, p.110; The Netherlands non-paper, A UN Rapid Deployment Brigade; Apreliminary Study, The Hague, 1995.

44)ガリが1992年に「平和への課題」の中で提案した平和執行部隊(Peace Enforcement Unit)構想は、ソマリアボスニア・ヘレツェゴビナのPKOの挫折を経て、 1996年の「平和への課題:追捕」では、極めて小規模の場合を除き国連の有する資源が不足している現状では、これを試みることは愚かであると否定される {Supplement to an AgendaforPeace, op.cit, para, 77)しかしながら、将来にわたってその可能性が完全に否定されている訳ではない。ガリの「平和への課題」および「平和への課題:追補」の解説として、プトロス・プトロス・ガ-リ/神余隆博解説「平和への諌穣一予防外交、平和創造、平和維持」鴨武彦編『国際政治経済システム』第4巻、有斐閣、 32-59頁が有益である。